日本のプロフェッショナル 日本の会計人|2016年9月号
長島 正明氏
株式会社長島会計事務所 長島税務会計事務所 所長 税理士
長島 正明(ながしま まさあき)
1969年12月生まれ。神奈川県横浜市出身。1991年、慶應義塾大学商学部卒。1994年、税理士試験合格。同年、株式会社長島会計事務所入所。1996年10月、税理士登録し、会計事務所を継承。1999年8月、株式会社長島会計事務所代表取締役就任、現在に至る。
20年以上、70歳以下の離職者ゼロ。
じっくりと、ゆっくりと、年輪を重ねるように成長していきます。
「物心ついた頃から決まっていた」。それが2代目として事業を継承する者の思いかもしれない。会計事務所の2代目なら、税理士へのレールはすでに敷かれている。そのレールが長ければ長いほど、2代目の苦労も増すのではないだろうか。中小企業が集積する東京都大田区。そこで60年以上の歴史を持つ長島会計事務所の2代目として所長に就任したのが、税理士・長島正明氏だ。増えてきた会計事務所の2代目、3代目というポジションには、どのようなやりがいや苦労があるのだろうか。長島氏の軌跡を追いながら、2代目というポジションの立ち位置や事務所の運営について伺ってみた。
祖父を継いで税理士に
政治家、大企業経営者、はたまた芸能人の2代目俳優や芸人の子ども…。世はまさに2代目花盛りの時代を迎えている。会計事務所も同様、2代目、中には3代目という所長がとても多くなってきた。そんな2代目所長には、「親の言う通り、きちんと事務所を継ぐ」タイプと「2代目なら第二創業期を作っていこう」という反骨精神旺盛なタイプがいる。株式会社長島会計事務所の所長税理士・長島正明氏は、どちらかというと敷かれたレールにきちんと沿っていく、前者のタイプだ。
「厳密に言えば、私は3代目になります。母方の祖父が戦前から計理士をしており、税理士法に沿うかたちで昭和28年(1953年)から会計事務所を営んでいました。ただ、祖父が亡くなった時点で、私はまだ資格が取れていなかったんです。そこで別の方にワンポイントリリーフで事務所を引き継いでもらい、経験を積んでから所長に就任しました」
大学では4年間アイスホッケー部に所属。しかし大学の付属校時代からアイスホッケーを始めていた部員が多く、受験を経て大学に入った長島氏にとっては練習や試合で何とか皆についていくのが精一杯。主将や副主将のようなリーダーシップを発揮して部員を率いる存在からはほど遠いタイプだった。
「今でもそうなんですけど、どちらかというとボーッとした性格で、リーダーシップなんてまったくないんです」との発言も、総勢26名の中堅会計事務所を率いる所長にしては、いかにも控えめだ。
アイスホッケーにのめり込んだ長島氏は勉学がおろそかになり、早くも大学1年で留年。将来についてもどんな仕事をするのか、まったくイメージを持てずに4年までズルズルといってしまう。気がつくと入学時の友人たちは1年早く銀行や大手商社に就職が決まり、自分だけが取り残されていた。アイスホッケー部も仲間が引退してしまい、やることがない。「じゃあ何をやろうか」。そこで初めて「資格」に心が動いた。
資格を取ろうと考えた時、公認会計士ではなく税理士を選んだ理由。それは、もちろん祖父が税理士だったことが大きい。実はサラリーマンだった長島氏の父親は高校2年の時に亡くなっている。以来、母子家庭となった長島家に度々手紙を送ってくれたのが祖父だった。
「税理士になって後を継いでくれと直接的に書いてあるわけではありませんでした。でも、母がずっと生計を立てて私を育てているのを、祖父は私の知らないところで援助してくれていたんだと思います。手紙では、生活はどうだとか聞いてくることが多かったですね。そんな中にさりげなくTACの税理士講座が紹介してあったり。それまで税理士になって祖父の後を継ごうなんて考えたこともなかったんですけど、1年遅れて就職活動時期を迎えてから意識するようになって、税理士をめざしてTACの税理士講座で学ぶことにしました」
こうして受験をスタートした長島氏の初の本試験は大学4年の時だった。この初回のチャレンジで簿記論と財務諸表論の2科目に合格。卒業した年は法人税法、相続税法を受け、相続税法に合格。翌年3回目の試験で法人税法、所得税法を制覇し、3回のチャレンジで税理士試験に合格した。合格を長島氏は次のように振り返る。
「働きながら試験を受けても合格できる自信がなかったので、何が何でもこの3回目の試験で終わらせようと思っていたんです。だから正しい言い方をすれば、3回で合格をめざしたというより、もう後がない背水の陣で臨んだ感じでした」
それでも3回で税理士試験を終えるなんて、すごいではないか。そう思う人は多いだろう。
「いいえ、学生時代からボーッとしている性格ですから、働きながらなんて絶対合格できない。そう思っていたので、母には申し訳なかったのですがアルバイトすらしなかったんです。そんな状況ですから、さすがに3回目は相当なプレッシャーがありました。毎日TAC横浜校の自習室に通って、ひたすら勉強ですよ。今でも時々『うっかり1科目取り忘れて自分が慌てている夢』を見る時があるんです(笑)」
8年間の下積み時代を経て所長就任
3回目の税理士試験の直後、長島氏は24歳で祖父の事務所に飛び込んだ。実は、その前年に祖父が他界。当時は税理士法人制度はなかったので、祖父が亡くなる前に会計法人を設立して職員の雇用を守りつつ、税務署OBにリリーフを頼んで会計事務所を引き継いでもらっていた。事業承継するためには一日も早く事務所に入り、実務に慣れておかなくてはらならない。そこから長島氏のいばらの道が始まる。いわゆる丁稚奉公の時代だ。
老舗事務所の、しかも経験がものをいう業界。そこでゼロからすべての実務を覚えていかなければならない。最初はまったく仕事ができないもどかしさに「情けないな…」という思いが募った。しかし、自分で仕事をやっていかないと、まず社内で認めてもらえない。将来的には2代目所長かもしれないが、周囲はみなキャリアの豊富な先輩ばかり。長島氏の言うことなど聞いてくれるわけもない。誰も手取り足取り教えてはくれないので、自分でやっていくしかない。それどころか、何の経験もない若造は、中小企業の社長や経理担当者にも最初はまったく相手にされなかった。
「歴史ある事務所なので、お客様と担当はしっかりとした関係ができています。一番年下の私が入り込むのは難しいですよ。何より、社内で認めてもらうまでかなりの時間がかかりました。仕組みの出来上がっている事務所で、父親ほどの年代のスタッフがすでに自分の顧問先を抱え、生活をかけて働いている。当然、ゼロスタートの私などにかまっている暇はありません。自分自身ですぐに結果を出せないジレンマや情けなさでいっぱいで、経験がものをいう業界であることを思い知らされました。認めてもらうには、まず自分自身が一番の結果を出さなければいけない。最初の頃はそんな焦りばかり感じていましたね」
「早く自分で新規のお客様を増やさなければ」。焦りを感じていた時、目をかけてくれたのが、ある黎明期の成長企業の社長だった。
池井戸潤の小説『下町ロケット』をご存知の方は多いと思うが、大田区はあの小説を地で行く中小企業のメッカ。城南島、京浜島、昭和島の集積地や蒲田、羽田近辺には機械加工・切削・研摩の中小企業がひしめいている。そのうち半数は社員数10人未満の小さな町工場だ。
大田区のこうした中小企業は、リーマン・ショック前は約9000社あったが、現在は5000社ほどに減っている。特に製造業は減り続けているが、リーマン・ショック後の現在も生き残っている会社は、規模の大小に関わらずしっかりとした技術力を持っている会社が多い。実際、海外展開をしているところも多く、海外取引に関連して国際税務の相談や質問も会計事務所に多く寄せられる。
そんな中で上場をめざしている1社から目をかけてもらったのが、長島氏が浮上するきっかけとなったのである。その後上場企業となったその会社から、長島氏は多くの仕事を受けるようになり、そこから仕事は軌道に乗っていった。
軌道に乗ったもう一つのきっかけは、入社1年目に、たまたま下請けと取引のあった某自動車会社の経理財務担当として、子会社をまとめるプロジェクトのため出向したことだった。2年間大企業のベテラン経理マンに叱られながら鍛えてもらい、プロの経理財務を間近で見ることができたのである。現在も子会社十数社と取引があるこの自動車会社のプロジェクトへの参加が、長島氏の基礎となった。
2年間の出向を終えて帰ってきた長島氏には、大きな自信が宿っていた。その後は自分で顧問先を開拓し、その数も急激に増えていった。1996年10月には税理士登録をして会計事務所業務を継承し、入社から8年目の1999年8月、32歳の時に2代目として事務所の所長を襲名した。
20年間、70歳以下の離職率ゼロ
8年間の下積み時代を終えて所長になっても、所内で長島氏が一番年下という状況は変わらない。「先輩ばかりの組織では、どうにも所長として動きづらい。どうにかして自分の参謀を持てないだろうか」と考えていた。
「ちょっとずつでもいいから若返りをしたいな」。そこで考えたのが若手スタッフの採用だ。
「自分で新しく社員を一人採用するのが、所長になって最初の一番大きな仕事でした。その時のことは、今でも忘れられませんね。それまで税務会計の知識を駆使してお客様に対していかに認めてもらうかしか考えていなかった私が、社員の採用をするんですから。
一人の社員を雇うということは、自分の家族よりも先に守らなくてはならない存在、それも一生守っていかなくてはならない存在ができるということです。その決断をして、しかも居並ぶ先輩方の前で失敗は絶対に許されないプレッシャーと闘いながら、TACの就職説明会に参加したんです。そこでそうそうたる大手会計事務所と並んで、一人ぽつんとブースで応募者を待っていました。すると、たまたま一人でフラッと現れた応募者がいました。私には彼がどんなに光輝いて見えたことか…。その時の光景は、つい昨日のことのように覚えています。その彼が今、私の右腕となってくれています。この採用がうまくいったことが大きなきっかけになって、そこから採用も順調にいくようになりました」
採用から若返りを図る。一番年下の2代目所長にとっての最初の大きな決断。所長に就任して1年目のことだった。
引き継いだ当初はまだまだ若輩に見えた長島氏も、こうして徐々に経験を重ねていくうちに将来のビジョンが見えてくるようになる。
「当時は考えられなかったけれど、今になって、これまでずっと事務所がやってきたことを継承していく大切さがわかってきました。言葉にすると、伊那食品工業株式会社の塚越寛会長がおっしゃっている『年輪経営』になりました。急激な成長より、一年一年、年輪を重ねるように少しずつ成長しながら永続させることが一番だという考えです。極端な成長をすればいろいろなところに負担がかかったり、どこかで社員に反動がくると思うんです。やはり長い時間をかけて、じっくり少しずつでいいから成長していくのが、一番の理想ではないか。お客様も2代目、3代目が多くなってきて、家族のようなお付き合いがあります。そんな長いお付き合いのお客様に、急激な変化でご迷惑をおかけするわけにはいきません。そのためにも、少しずつの成長を続けながらずっと見守っていけるようなサービスを提供していきたいですね」
この言葉を裏付けるように、事務所の顧問数も件数的には驚くほどの変化はないという。廃業など淘汰の波にさらされながら新陳代謝して、数字的には長島氏が入社した当時から少しずつ増えており、事務所の売上も数パーセントずつの成長だ。
さて、所長になった翌年に初の採用をしてから、毎年一人ずつ、若手を入れていく方針が続けられている。これまで採用した社員について、「来る人来る人、一生懸命仕事をしてくれる人に恵まれてきました。若いので見た目は今風だったりおしゃれだったり、一見軽そうに見えるんですが、仕事になると本当にしっかりやってくれるんですよ」と、心の底から嬉しそうに話す。
実は、長島会計事務所では長島氏が所長になる以前から、70歳以下の退職者がいない。早い話が、70歳以下で辞めた社員が一人もいないのだ。
人材が流動的な会計業界にあって、これは特筆すべきことと言える。それを長島氏は「この業界は比較的年齢が上がっても仕事ができる業界だと思うし、長い間働けることが事務所としても一番の福利厚生だと思っています。それって、一番幸せな気がしますよね。長い間安定して仕事ができるってすごくいいし、自分自身もそうしていきたいんです」と、さらっと言ってのける。
なぜ長島会計事務所は、70歳まで離職率ゼロなのか。
「まず社員の給料が他と比べていいと思います。経済的な安定・余裕がまず一番の前提条件なので、一般的な上場企業以上の給料は出すようにしています。それから、お客様に恵まれているところもありますね。お客様に恵まれているから、社員たちは一生懸命働きます。それに本当に良い社員が来てくれたから良い循環が生まれているんです。
社員全員が安定して安心して働ける。このことが長い目で見て一番の幸せだと思うんです。社員の生活は絶対に守ります」
常に穏やかで人の前に出ることのない長島氏が唯一声高に放ったのは、最後の台詞だった。
60年間以上蓄積された相続税ノウハウ
現在の顧問数は法人約500件、個人事業主約400件。法人の中には規模の大きな会社もあるが、半数が10人以下の規模の典型的な大田区の地元中小企業だ。2代目、3代目に代替わりしながら200~300名規模で長いお付き合いをしているところもあり、新しい会社もあり。小さな中小企業から上場企業まで、製造業を中心に幅広いラインナップになっている。
となると当然、製造業と切っても切り離せない海外展開も守備範囲になってくる。中国や東南アジアに工場を移転したいという顧問先もいれば、海外現地の子会社の会計を見てもらいたいというオファー、あるいは海外取引に関する移転価格税制や人の異動に伴う確定申告等の相談も増えてきた。
「最近は大田区の中小企業も、海外絡みと切っても切れない部分が出てきました。業務の幅も広がってきていますね。そこに自然と関わらざるを得なくなってきています」と、新たな業務の到来を受けて立つ。月次から決算までのオーソドックスな税務会計をメインに、移転価格税制といった国際税務まで幅広くフレキシブルな対応が求められるようになってきている現状を踏まえ、国際税務にも力を入れているのである。
それだけではない。大田区は意外にも地主が多い地区でもある。つまり、相続税関連の仕事が多いのも特徴だ。大田区中心に60年以上にわたる信頼関係を築いてきた長島会計事務所だからこそ、20年30年の長きに渡る、かつ2代目3代目となる長いお付き合いも多い。その中で、事業承継がうまくいった会社や、残念ながらうまくいかなかった会社もあった。8年間丁稚奉公してきた長島氏は、そうした代替わりに関わりながら、外部要因だけでなくかなりの部分が経営者に起因する事例や、一筋縄ではいかない事例を数多く見てきた。不動産活用の相談を受けたり、事業承継や後継者問題をどうするかといったよろず相談を受けるのも、長島会計の大事な仕事になっている。しかも、こうした事例は、よほど複雑な案件以外、日常的に担当者が対応するという。
「50年という歴史の中で、うちは会社だけでなく経営者の個人資産も含め、資産税、相続税は自然にかなり幅広く全員ができるようになってきています。資産税の時だけ『専門じゃないんで他の者に代わります』というわけにはいかないでしょう。だから、みんな積極的に自分からTACの実務講座などを受けたりしていますね。おかげで、本格的な大型案件になれば専門チームを組んで対応しますが、ほとんどの相続税案件は担当者レベルで対応できています」
相続税法改正で相続税案件は増えてきているので、顧問先側がセミナーなどでかなり情報を持つようになっている。となると、会計事務所側もありきたりの知識レベルでは太刀打ちできない。一歩も二歩も踏み込んだ相談ができるように知識とスキルを上げていかなければ顧客対応できないと、長島氏は分析する。それがわかっているから、長島会計では社員が自ら意識して自発的に勉強しているというのだ。
「担当者が、長いお付き合いの中でお客様と二人三脚でやっていくスタイルがうちのやり方。そして担当者が70歳を過ぎた頃、お客様のほうも代替わりする段階で少しずつお互いバトンタッチしていくんです。もちろんお客様のペースに合わせて、私たちもじっくりゆっくり代替わりしていきます」
そのせいか、長島会計では担当者の引き継ぎがうまくいかなかったことがない。
「人が辞めない事務所」は時間をかけて熟成する
現在のスタッフは総勢26名。そのうち税理士2名、社会保険労務士2名、あとは全員、科目合格者という陣容だ。
「科目合格の社員たちは時間をかけて、残りの科目を取っていくことになると思います。本人たちもちょうど仕事がおもしろくなってきた時期。税理士試験は一度合格した科目はずっと生きるので、仕事が落ち着いてくれば順番に休みを取ってチャレンジしていくと思いますよ。私のほうでは特に管理はしていません」と、長島氏は税理士試験についても焦ることなくじっくりと構えているようだ。
「税理士試験5科目取得は大変だと思います。でも、長い人生の中の一時期だと割りきってがんばってほしいですね。働きながら長期戦になる人を見ていると、働きながら勉強できない私は本当に頭の下がる思いです。でも万が一、たとえ何かの事情で5科目に届かなかったとしても、この仕事では勉強した知識は必ず役立つと思うんです。それを信じてがんばってほしいですね」
規模の大小にもよるが、一人当たりの担当数は平均して20~30件。そんな中で長島氏自身の仕事に目を向けてみると、事務所経営の他に10社の担当を持っている。
「極力自分も現場感覚を忘れないように、担当は持つようにしています。まったく現場から離れてしまうと感覚が鈍ってしまいますから」というのが持論だ。
所長としての大きな仕事は、何といってもマネジメントだろう。そう水を向けると、即座に「いえいえ、スタッフが自発的にやってくれるので特にマネジメントはしていないんです」と返ってきた。26名もの組織を率いるのに、マネジメントをしなくて済むなどということが、現実としてあるのだろうか。ただ一つ言えるのは、とにかく自然に、流れにまかせていくのが長島流だということだ。
顧客拡大も、セミナーなどを開催して積極的に増やすのではなく、お客様からの紹介と口コミがほとんど。それも「わかっていただいた上で、少しずつ増えていくのが一番」という。本当にゆっくりと自然に幾重にも年輪を重ねていくような広がり方なのである。
「採用に関しても、私自身は経験者か未経験者か、科目合格しているかどうかなどはまったく関係ないです。結果的に今来てくれている社員は2~3科目に合格している人たちでしたが、もし合格している科目がなくても、やる気さえあって人柄が良ければいいんです。本当に信頼できて、ずっと家族の一員と思えるかが重要ですね。彼らはみんな家族の一員。そう思っているので、採用面接もじっくり時間をかけてやりたいと思っています」
「人が辞めない事務所。70歳まで働ける事務所」。これは、事務所の最大の特徴と言っていい。そこでは急激な変化や大きな成長は求められない。ゆっくりじっくり自分のペースで伸びていく。この安心感、安定感が誰も辞めない事務所の極意なのかもしれない。
自主性による自分主導の仕事スタイル
長島氏が入所する以前、祖父が亡くなる時にはまだ税理士法人が認められていなかったので、雇用を守るために株式会社を設立したという。税理士法人化についても社員たちの意見を尊重しているので、意見を聞きながら考えていきたいと長島氏は話している。
「繰り返しますが、自分はリーダーシップを持ってがんがん引っ張れるタイプではないので(笑)。仕事も誰が引っ張るということではなくて、各自が自主的にやってくれているんです。私にリーダーシップがないので、みんなでがんばってまとまってくれている。そこが私の恵まれた部分ですね。社内では仕事のやりとりはあっても、いざこざはまず見たことがありません。
試験の時に休みを取るのも自由です。旅行が好きな人は自由に休みを取って毎週のように行っていますし、まとめて長期休暇を取る人もいます。社員旅行も海外を中心に毎年どこかへ行っていますね。研修も、特に会社が強制するのではなく、各自で行きたいものに参加しています。社員が行きたいと言えば、会社から補助が出る仕組みです。なんだか特徴がなくてすみません(笑)」
例えば新しい企画を立ち上げたいと手を挙げたら自分でやっていく社風、自分の担当から少しずつ顧問先を紹介してもらい、少しずつ業務の幅を広げたいと思ったら自らそれに向かっていく社風、結果が出たらその分だけ給料がアップする体制。やったことが自分にはねかえってくるので努力もするし、協力する部分は協力する。自然に生まれる良い循環。それは理想の組織と言っていい。そして何より、組織の安定感がありつつ、自分主導でチャレンジできる感覚が社員の定着率につながっている。
実務と経営、双方を経験できる醍醐味
事務所のめざす方向性にも急激な変化はもちろん求めていない。
「少しずつでもこのまま成長していけるのがいいですね。そのために少しずつパイを広げていくのが、私の一番重要な仕事だと思っています。ただ、これは口にするのは簡単でも実行するのは難しい部分があるんです。とは言っても、いたずらに顧問料を下げて仕事を受けるようなことは一切しません。そんなことをやり始めるとぎすぎすしてしまうので、やはり価値を分かってくれるお客様に理解していただいた上で、少しずつでも増やしていければと思っています」
事務所のセオリー通り、長島氏自身も70歳まで仕事をしたいと考えている。「本当に長い間できる仕事で、その間に培った経験がものすごく説得力を持つ仕事」だからだ。
「そういう意味では、私にとってこの仕事は天職だなと思いますね」
まったく興味を持っていなかった学生時代から、たまたまめざした税理士。46歳の現在までの軌跡を振り返って、しみじみと長島氏は次のように話す。
「まったく相手にされなかった最初の4~5年があって、30歳過ぎからちょっとずつ感謝されるようになって…。やはり中小企業の社長はひと癖もふた癖もあるので、なかなか20代の若造を相手にしてはくれないんです。フラッと行っても本音ベースで税務会計のことなんて話されないんですよ。
それが逆に頼ってくださるようになると、ものすごく大きなやりがいになるんです。こんな素晴らしい仕事、なかなかないですよ」
そして何より税理士となって良かったのは、経営者としての側面と実務家としての側面の両方を経験できる点だという。
「担当を持つことでプレイヤーとしての良い部分も経験できるし、社員たちががんばってくれる経営者としてのやりがいも大きい。その両方を経験できるのがいいですね。
私自身、大田区の中小企業を対象としたごくごく一般的な税理士だと思っていますが、その中で5万人を超えるといわれる国税職員との折衝や、税法という特殊な法律の扱い、何より会社経営の大事な部分の財務を通して経営者と直接相対することができるのは、本当に大きなやりがいです。税理士をめざす前の学生時代はまったく考えもしなかったのですが、結局自分は天職だと思える仕事にめぐり逢えて本当に幸せです。おそらく社員たちも同じ気持ちだと思います」
2代目として、決して安穏と日々を過ごしてきたわけではない。だからといって丁稚奉公時代の苦労を同じように人に強要してはこなかった。じっくりと、ゆっくりと。一年一年少しずつ年輪のように成長していけばいい。パソコンを立ち上げる1秒をもどかしく感じる時代に、こんな人間味あふれる事務所があると思うだけで、何だか心が温まってくる。長島氏から伝わってくる何とも言えない安心感が、この事務所をぬくもりある組織にしているのは間違いない。