日本のプロフェッショナル 日本の不動産鑑定士|2023年2月号
藤田 勝寛氏
株式会社あかつき不動産サービス
代表取締役
不動産鑑定士 宅地建物取引士 行政書士
1974年、神奈川県横須賀市生まれ。中央大学商学部卒業。新卒で大手不動産会社に入社するも1年間経理部に勤め退社。その後1年間、シナリオライターをめざし、専門学校に通う。25歳で不動産鑑定士取得をめざし、27歳で第2次試験合格。赤坂の個人事務所に3年間勤め、30歳で第3次試験合格、同年に登録。その後、株式会社日税不動産情報センター、株式会社東京カンテイで経験を積み、2009年7月、横浜市で株式会社あかつき不動産サービスを設立。
「走る不動産鑑定士」として、マスターズ陸上に出場中。
ランナーとしての経験が鑑定士業にも活かされています。
税理士、弁護士、公認会計士、不動産業者から不動産・相続の相談が数々寄せられている不動産鑑定士・藤田勝寛氏。「どんな難しい相談でも粘り強く取り組み解決していきます」という自身の売り文句には、48歳の現在も現役で続行している陸上選手としての経験が反映されている。マスターズ陸上アジア大会で金メダル3、銅メダル1、世界大会で金メダル1、銀メダル2、銅メダル1。アスリートとしても素晴らしい成績を収めてきた藤田氏に、不動産鑑定士になった経緯、陸上競技を続ける理由、「走る不動産鑑定士」としての今後の方向性などについてうかがった。
走る不動産鑑定士
一枚の名刺がある。中央にネクタイを締めて走る人のイラスト、その上下に大きく「走る」の文字、その下に小さく「不動産鑑定士」と入っている。不動産鑑定士(以下、鑑定士)、藤田勝寛氏の名刺だ。走るのが本業なのか?と尋ねたくなるが、藤田氏は48歳の現在、開業鑑定士として活躍する傍らで、マスターズ陸上大会に出場する本物の「走る鑑定士」なのだ。売り文句は「どんな難しい相談でも粘り強く取り組み解決していきます」。陸上競技で培った忍耐力、集中力、持久力が反映されているようだ。
学生時代の藤田氏は、小学校6年生から大学までの10年間、ずっと短距離走を続けてきた。現在も取り組む400m走を専門とするようになったきっかけは、中学2年のとき、部活の顧問から「君は400m走をやりなさい」と勧められたことだった。それから48歳になる現在まで、400m走にこだわり続けている。ただし400m走は実に厳しい競技だと言う。
「運動には有酸素運動と無酸素運動があります。100m走や200m走は息を吸わない。無呼吸で走るというか、実際は呼吸しようとしてもできないくらいのスピードで走る無酸素運動です。一方、マラソンや800m走のような長距離走は有酸素運動。その間にある400m走は無酸素運動の限界を走るレースです。無酸素の限界は40秒と言われています。限界の9割くらいの力で走り続けなければならない競技で、やってみると300m位で体が動かなくなります。40歳のときにフルマラソンに出たことがありますが、瞬間的には400m走のほうがキツいと思います」
初めて400m走に出場した前日、大会に出るのが怖くて泣いた記憶があるという。
「それなのにいざレースに出たら同学年の中で1位になれたのです。これは向いているのかもと思って続けましたが、やはり何千回レースに出てもつらいものはつらいので、前日から憂鬱になります(笑)」
中学卒業後も陸上に没頭していた藤田氏だが、学業でも高校1年の最初の試験は学年で20番以内。しかしその結果に慢心して勉強をしなくなったことで成績は急降下した。
「一方で陸上だけは一生懸命やっていましたね。遅刻も多いし授業も出ないけれど、部活だけは休まない。そんな生徒でした」
いつかは専門性と独立性の高い道に進みたい
大学進学を決める時期になっても、将来の目標や方向性は決まらなかった。「とりあえず」の気持ちで商学部をめざしたという藤田氏だったが、結果は不合格。さすがに浪人してからは背水の陣で必死に勉強し、中央大学商学部に合格することができた。
中央大学商学部は公認会計士(以下、会計士)をめざす学生が非常に多い学部で、大学側も受験生に手厚い体制を整えていた。周囲を豊かな自然に囲まれた環境で、「法学部生は司法試験」「商学部生は会計士試験」というように、将来を見据えて勉強に励むのが中央大学の学生らしいキャンパスライフだった。
「そういった環境だったので資格試験は比較的身近な存在でしたが、私はそのときも走ってばかりでした。でも、大学4年になって初めて将来について考え始め、漠然とではありますが、『資格を取ってみようか』『いつかは起業してみたい』といった思いを抱くようになりました。
そこで『資格・起業』で調べたときに、鑑定士という資格を知りました。あくまで当時の情報ですが、受験指導校のパンフレットに『独立開業可能性No.1』、しかも『士業の中で平均年収No.1』と書かれていて。『いつかは自分も専門性と独立性の高い道にいけたらいいなあ』と憧れながらも、そのときはまず一度社会人経験を積もうと決めて、大手不動産会社に就職しました」
こうして藤田氏は社会人としての第一歩を踏み出した。
25歳で鑑定士をめざし27歳で第2次試験合格
大手不動産会社に入ると、体力があることを見込まれて、社内で一番忙しいとされる経理部への配属が決まった。
「最初の数ヵ月は本当に忙しくて、2~3日に一度はホテル泊でした。毎日23時まで仕事をしてから先輩と飲みに行き、銀座や六本木で豪遊していましたね。最初はすごく新鮮で、華やかな世界も見られておもしろいなと思ったのですが、この生活が20年、30年と続くのはちょっとつらいなと思ってしまって。このとき実は学生時代から憧れていた“ある夢”に挑戦してみようかという気持ちが高まっていたこともあり、1年でやめることにしました」
“ある夢”とは、鑑定士でも陸上選手でもなく、脚本家になる夢だった。実は学生の頃から陸上に没頭する傍ら、趣味で賞などに応募していた藤田氏。もちろん親からもひどく怒られたが、藤田氏は「1年だけ好きなことをやらせてくれ」と頼み込み、1年間青山にあるシナリオライターの学校に通った。
「OBには有名な脚本家がたくさんいました。通い始めて1年経ったとき、ある講師の先生から『絶対デビューするまで面倒を見るから続けてみないか。ただしこの世界は甘くない。35歳までアルバイト生活でも我慢できるか』と聞かれました。当時25歳だった私は、それはさすがにできないと思ったので、脚本家の道は諦めました。もちろんこのときも親に叱られましたね。そこで仕切り直して何をめざすか真剣に考えたとき、『そういえば学生時代、鑑定士になりたかったんだ』と思い出したのです」
あらためて鑑定士の仕事についてきちんと調べ始めた藤田氏。鑑定士は不動産の適正な価値を鑑定するプロフェッショナルで、専門性が高く魅力ある士業だということもわかってきて、「資格を取得するなら鑑定士」と心に決めた。
第1次試験(当時)は大学の一般教育課程修了で免除となるため、第2次試験(当時)に挑むべく、25歳で受験指導校に通い始めた。しかし1回目の試験は不合格に終わった。
「1回目の試験の結果がわかったあと、一度は実務を経験してみようと不動産鑑定事務所でアルバイトとして働きました。鑑定士をめざしていると話すと、周りのスタッフからTACを勧められまして。それで横浜校に通い始めたのです。TACのテキストは要点がまとまっていてコンパクトな作りだったので、効率よく勉強ができました。鑑定士試験はマニアックになればなるほどドツボにはまるので、そこはドライに割り切って、テキストだけ繰り返したもの勝ち。TACのテキストだけ信じていれば大丈夫でした」
不動産鑑定事務所を退職後は、残業がない派遣社員として平日は夕方5時まで働き、夕方5時半から夜の9時まで勉強、週末は朝から自習室にこもり夜まで8時間、直前期は毎日13時間の勉強に励んだ。
そんな努力が実り、2001年10月、2回目の挑戦で藤田氏は合格を果たした。27歳のときだった。
小規模法人から大規模法人まで、幅広い案件を経験
合格した翌月に入った赤坂の不動産鑑定事務所は、所長の他に藤田氏と同じ第2次試験合格者が5名程度在籍する個人事務所だった。しかし、個人事務所とは思えないほど全国に不動産を保有する上場企業や大手企業との取引が多かった。そのため藤田氏も全国津々浦々を巡り、物件調査に励んだ。
「務めていた3年半、2週間に一度はどこかへ地方出張していました。仕事で回った都道府県は今までに42ありますが、その事務所にいるうちに30は回ったと思います。仕事は忙しくて本当に大変でしたが、多種多様な不動産に触れる経験は血となり肉となって、今の仕事にも役立っています」
赤坂の事務所で3年間の実務要件を満たした藤田氏は第3次試験(当時)合格を経て、2005年3月、鑑定士として第一歩を踏み出した。
藤田氏が次に勤務したのは、税理士向け不動産コンサルティング会社の日税不動産情報センターである。日税不動産情報センターは税理士協同組合が作った組織で、営業先はすべて税理士やその顧問先。ちょうど組織内に鑑定部を立ち上げるタイミングだったので、不動産絡みの相続コンサルティングを経験することができた。まだ相続に詳しい鑑定士が少ない時代に、藤田氏は初めて相続周りのコンサルティングについて学び、鑑定士としての新しい領域に挑んだのである。
さらに1年半後、不動産シンクタンク系の業界大手、東京カンテイに縁があり転職。2000年の投資信託及び投資法人に関する法律(投信法)の改正以降、J-REIT(不動産投資信託)が活発化し始めた頃で、ここでは不動産の証券化という過去に経験したことのない業務が待っていた。
「大手事務所でしか経験のできないJ-REITの仕事に携われたのはラッキーでした。ほとんどの鑑定士が経験する機会のない仕事だと思うので、非常に貴重でしたね」
日税不動産情報センターでは小規模事業者の相続案件や事業承継問題を、東京カンテイではJ-REITや金融機関からの依頼による大規模法人を多く手掛け、幅広い経験を得た藤田氏は、3年間の勤務を経て、2009年7月、独立開業に踏み切った。
開業当初は士業交流会でネットワークを広げる
大学時代、「いつかは起業してみたい」と考えていたものの、漠然と考えていただけで、具体的なプランがあった訳ではなかった藤田氏。そんな藤田氏の背中を押してくれたのは、10歳年上の姉の存在だった。
「私の姉は30歳のときに癌で亡くなっているのですが、病気が判明したあと友人に、『この状態ではこれまで働いていたところでは働けそうにないし、弟が開業したらそこで雇ってもらうんだ』と話したそうです。もう亡くなってしまったので願いは叶えられませんが、その言葉を思い出して『35歳で独立しよう』と決めました」
独立を考えていることをいくつかの親しい企業に話すと、「独立するなら仕事を依頼する」と快く言ってもらえた。しかし、目標通り35歳で独立を果たすも、リーマンショックの影響をもろに受けることになった。
「多くの企業が倒産して、期待していた仕事がなくなってしまいました。それで公共の仕事があると聞いたので、神奈川県の出先機関である土木事務所などを丁寧に営業して回って仕事をもらっていましたね。ところが政権交代が起きたことで、この公共の仕事も減ってきてしまって。25年~30年前に鑑定士になった先輩は公共の仕事だけでものすごく儲かっていたといいますが、私のような新参者は仕事がなくて先輩の下請けをしたり、交流会で知り合った方から仕事を紹介してもらったりしていました」
中でも紹介の輪が最も広がったのは、同業者の交流会だ。もともと鑑定士は年間100~200人しか合格者のいない難関資格。人数が少ないぶん、職人気質が強くて面倒見がよく、後輩に仕事を回してくれる人が多い業界だ。藤田氏自身が100人規模の士業交流会を10回ほど開催すると、ネットワークが広がり紹介案件は増えていった。
こうして開業から2年間は「何でもやります」のスタンスで営業し、並行して毎年国土交通省が地価公示の際に行う路線価算定や、スポットで仕事の依頼を受けることで売上を作っていった。3年目に入ると税理士との協業による相続案件が多くなり、初めて顧問先ができた。事務所の柱が1つできあがったのである。
「知り合いの弁護士の紹介による地元の金融機関からの依頼や、神奈川県の大型税理士法人からの依頼で、安定的に顧問を受けられるようになりました。金融機関は事業用融資の際に担保物件を取るので、融資の担保設定をする際の鑑定評価がメインです。一方税理士法人は、相続申告で遺産分割の際に必要になる土地の鑑定評価が私の仕事になりました。こうして顧問料をいただくようになってから、右肩上がりでどんどん仕事が増えて、経営がぐっと安定してきましたね」
税理士からの依頼が6割
藤田氏の受ける案件で最も多いのは、税理士から依頼される不動産絡みの案件だという。オーナー社長が持つ不動産を会社へ、逆に会社の不動産を社長個人に“移す”、あるいは関連会社から関連会社に“移す”といった案件が一番多い。
「この“移す”というのは、当事者の感覚的には“移転”です。でも税務署からしたら“売買”。だから親族への移転や会社絡みの売買は、きちんと鑑定士が価格をつけるのが税務署の方針です。今もこの仕事が最も多くて、全体の6割を占めています」
その他には、弁護士から依頼される訴訟絡みの鑑定評価がある。不動産に関して揉めごとが生じた場合に来る依頼だ。訴訟の際の鑑定評価には2つある。
1つは遺産分割で「現金は分けたが不動産はいくらで分けるのか」という場合。例えば相続人が2人いて親が残した家に1人が住むことになる。するともう1人は「ここにあなたが住むなら、この不動産の価値の半分を現金で支払ってほしい」となるケースだ。このときは双方とも鑑定士をつけて裁判で争うことも多い。
もう1つは家賃で揉めるケース。オーナー側と借り手側、どちらからも依頼が多い案件だ。例えば、安い賃料で貸し出されていた店舗ビルのオーナーが変わり、突然「家賃を増額します」と言われた借り手側が困ってしまうというケースだ。
「オーナーが変わった途端、家賃がそれまでの数倍になると言われ、これでは店が潰れてしまうという依頼を受けたことがありました。家賃の見直しは仕方ないにしても急に数倍以上にするというのはさすがにありえないので、私が適正家賃を算出して裁判で争いました。
逆にオーナー側に立つ場合もあります。『いくらなんでも家賃が安すぎるから増額したい』という要望を出したところ、借り手側も鑑定士をつけて争うことになりました。家賃は揉めやすい案件なので、かなりの依頼が来ていますね」
訴訟絡みの鑑定評価は裁判で戦うケースが多いので、精神的負担も大きいと藤田氏は話す。
「相手側の鑑定士が、こちらが出した鑑定評価書に対して反論してくる。大半はクレームのような類なのですが、それに毎回答えながら、今度はこちらから『あなたの評価のここがおかしい。ここはちょっと私の考えとは違う』と反論を書きます。また、裁判所は当事者同士の言い分が食い違っているときは、裁判所側で鑑定士を指名して鑑定評価書を取る場合があります。
仮にミスをしたら、そこを徹底的に突っ込まれるリスクがともない、かなり消耗するので、裁判の鑑定はやらないという鑑定士もいますね。私自信もこの仕事は胃が痛くなるし神経がすり減るのですが、かなりの件数の依頼をいただいているので、ニーズがあるのなら自分がやらなければという気概で臨んでいます」
めざすは「不動産のことなら何でも相談に乗れるコンサルタント」
現在、あかつき不動産サービスに所属する鑑定士は藤田氏ひとりである。
「正直ひとりでは手一杯ではありますが、がんばれば鑑定の仕事はなんとかできる範囲だと思います。今後も鑑定士としてこれまで通り続け、現状を拡大していく方向で考えています。
実は行政書士の資格も開業1年目で取得し、一時期は遺産分割協議書や遺言書の仕事をしていたことがありました。他に宅地建物取引士(以下、宅建士)資格とFP技能士2級も取得しています。今は鑑定業務が忙しいので他の資格を活かし切れていませんが、今後は活用していきたいと考えています」
一般的には宅建士資格を取ってから鑑定士にスキルアップする人が多いが、藤田氏は鑑定士になって日税不動産情報センターに入ったあと、31歳で仲介を学ぶために宅建士を取得している。FP技能士2級については、開業当時、鑑定評価に対する相続の知識だけでなく相続税など相続周りの知識をもっと身につけたいと考えて、独学で取得したものだ。
スポットで依頼される業務の1つである不動産仲介業は、宅建士の資格がなければできない。また遺言執行といった不動産の相続対策で、遺産分割協議書や遺言書を書く相続案件をより強化していくために行政書士資格のさらなる活用も考えている。
「仲介業を始めたのは、税理士や弁護士からの依頼で、遺産分割に際して『いらない不動産は売りたいので、不動産会社を紹介してほしい』という話が出てきたり、離婚調停で離婚に至ったりした場合、『不動産はいらなくなるから現金化して分けたい』という話が出てくるからです。行政書士として遺産分割協議書を書き、宅建士資格を使って仲介まで手掛ければ一気通貫で仕事を回すことができます。実際に何件か携わらせていただきましたが、不動産をベースにコンサルティングから仲介業までできるので、かなり守備範囲を広げることができました」
今藤田氏がめざしているのは、「鑑定士の肩書きにこだわらずに、不動産に関わることなら何でも相談に乗れるコンサルタント」だ。鑑定業務を軸に、藤田氏の業務の裾野はどんどん広がっていく。
他士業にアドバイスできる高い専門性が魅力
プライベートに話を移すと、藤田家は奥様と2歳の子どもの3人暮らし。しかも夫婦で鑑定士だという。合格者の少ない中、鑑定士夫婦というのはかなり珍しい。最初に勤めた赤坂の事務所に1年遅れで合格して入ってきたのが奥様。藤田氏はその後東京カンテイに転職したが、奥様はその後、大手金融機関に鑑定士として転職して今も在籍している。
藤田氏は「鑑定士は開業しやすい資格」だと言う。
「まず合格者が多くない。私が合格したのは試験制度が変わる前で年間合格者が300人弱でしたが、今は100人ほどしかいません。そのため需要があり、とにかく開業しやすいと思います。それに弁護士や公認会計士、税理士の他士業の方も、不動産についてはあまり詳しくないので、私たち鑑定士に相談します。プロフェッショナルから頼りにされるというのは、私にとって非常にやりがいがあって、おもしろいです。あとは、全国各地を巡って現地調査に行けて、スケジュールも自分で立てやすいのも魅力です。現地調査のあと、約1ヵ月の作業で納品になりますが、その間は同時並行でスケジュールも立てやすく、士業の中でもワークライフバランスが取りやすいと思っています。そういった点が鑑定士の魅力ですね」
現在は2歳になる子ども中心の生活になっているという藤田氏。仕事を17時に終わらせ帰宅し、子どもの面倒を見て、寝かしつけてから走りに出掛ける。顧問先や仕事仲間との飲み会も週に一度以上は入れない。
「仕事が立て込んで終わらなければ、土日にやればいい。案件によってスケジュールが立てやすいので、自分にとっては理想的な仕事です」
今鑑定士をめざしている受験生には「試験はマニアックで難しい。だからこそ資格が生きる道がある気がします。あと、私はまったく受験仲間がいませんでしたが、モチベーション維持のために受験仲間を作るのもいいと思います」と勧めている。
マスターズ現役選手として陸上競技を続行
学生時代、けがが多かった藤田氏は「大学で陸上は終わり」と決めて、卒業後10年間は走っていなかった。再開したのは32歳のときだという。
「あるとき街を歩いていたら、すぐ近くに武蔵野の陸上競技場を見つけまして。何だか無性に走りたくなって、翌日に実家に帰って10年前のスパイクを持って陸上競技場に向かいました。でも、現役の頃と同じつもりで高校生と走ってみたら、肉離れを起こして倒れてしまったのです。
そこでまずは身体づくりをしようと最寄りのジムに入会しました。若いトレーナーから『陸上をやっていたなら競技をめざしてみませんか』と言われ、1年間いろいろなトレーニングメニューを実践して、1年後試合に出場しました。そのときは驚くほど走れなくて、もうやめようと思っていたのですが、知り合いが『マスターズ陸上をやってみないか』と誘ってくれました。マスターズ陸上は35歳以上で5歳刻みに部門が分かれて行われるレースです。見学に行ったら筋骨隆々のおじいさんが走っていて、『こういう世界もあるんだな』と感動しました。しかも参加してみたら、最初の全国大会35~39歳の部でなんと2位に入れたのです。そこから再び陸上競技にはまってしまいました(笑)」
コロナ禍前までは海外の大会にも出場していた藤田氏は、2014年アジアマスターズ選手権では4×400mリレーの日本代表メンバーとして金メダルを獲得した。出場するのはやはり400m走。どんなにつらくても400m走にこだわり抜いている。
「今でも大会の前には、緊張して寝られなくなります。口数も減るほど憂鬱になるのですが、大人になってそうした緊張感ってなかなかな味わえないなと思います。400m走でマスターズに出場して、同年代と走るのはおもしろいですね」
藤田氏は、海外の大会や国内大会に出るには、やはり時間の融通が効く自営業が向いていると言う。
「マスターズ陸上は、自営業や消防士、警察官が多いイメージです。海外に行くとなったら、さらにそうした職業の人が増えますね。私自身も、独立しているからこそ、時間の融通もきくし、練習もできています」
マスターズ陸上の世界大会アジア圏では、とにかく日本人が強い。日本で1位2位の選手であればおおむね海外でも1位、2位が取れる。日本は高齢化社会なので65歳、70歳の部でさらに日本人のメダリストが増え、強い日本人を間近に見られる。
「70歳ぐらいの日本人で、短距離、長距離、幅跳びと、1人で複数回金メダルを取る人がいる。さらに80歳、85歳になると世界記録を出す日本人が出てくる。80歳で400mを走る人もいて、『その年齢で400m走を走れるなんて、相当な努力をされているんだろうな』と感心してしまいます。そういう人生の大先輩を見ていると『自分ももうちょっとがんばろうかな』と思ってしまいますね」と、笑顔で話す。
ランナーとしても鑑定士としても、日々研鑽を続ける藤田氏。これからも「走る鑑定士」として業界の一線を走り続けることだろう。
[『TACNEWS』日本の不動産鑑定士|2023年2月号]