特集 働き方は自分で決める。「理想の働き方」を資格でかなえた税理士
井川 望(いかわ のぞむ)氏
いかわのぞむ税理士事務所
税理士
1982年11月17日、大阪府堺市生まれ。高校2年で通信制高校に転校。卒業後は1年間、声優学校へ通う。その後3年間、舞台役者をめざして劇団員生活を送るかたわら、父の税理士事務所でアルバイトをする。22歳から税理士受験に専念。1年に1科目ずつ合格し、5回目の試験で税理士試験合格。合格後は複数の会計事務所に勤務し、30歳で上京。複数の事務所勤務を経て、32歳で独立開業。
税理士の井川望氏は、自分のやりたいサービスを、一緒にやりたいと思える人にだけ提供するというスタンスの、異色の税理士だ。普通科の高校から通信制高校に転校し、その後は3年間の劇団員生活。そこから税理士へと転換する。自ら「拡大路線はない」と語る井川氏が見つけた着地点は、「自分のやりたいサービスを、できる範囲で、一緒にやりたいと思える人に提供する」というものだった。井川氏の歩みとともに、独特の受験戦略、勤務経験、そして独立開業してからの方向性などについて詳しくうかがった。
普通科の高校から通信制高校へ転校し、舞台役者をめざす
──舞台役者から税理士になるという異色のご経歴をもつ井川さんですが、幼少期はどのような環境で過ごされたのでしょうか。
井川 大阪府堺市で小学校3年まで過ごし、その後、河内長野市で20歳まで暮らし、大阪市内で10年間一人暮らしをしていました。父は1996年まで税務署職員を務め、私が中学2年のときに45歳で退官して税理士になりました。ずっと夜遅くまで働いている人で、税理士事務所を設立してからも朝家を出て夜遅く帰ってくる生活は変わらなかったので、当時の私は税務署の仕事も、税理士になってからの違いもわかっていませんでした。
──その頃の井川さんは、将来についてどう考えていたのですか。
井川 中学時代は声優志望でした。夏休みに母と兄と一緒にミュージカル『アニー』を観に行ったとき、表現者として舞台に立つ同世代の女の子たちにすごく感銘を受けたのです。その後、ラジオをよく聴いていたことで声優に興味を持つようになりました。
通っていた中学校には児童劇団に入っている友人もいて、舞台の世界はほとんどが高校を卒業してから入ってくる人ばかりだと聞いたので、自分も高校を卒業したら役者をやってみたいと思うようになりました。高校は普通科の高校に進学したのですが、高校2年で通信制高校に転校しました。
──なぜ通信制高校へ転校したのでしょうか。
井川 大きく言えば、目標が変わったのです。実は高校受験にあたっては、将来、父の家業を継げるようにと考えて、進学校を選びました。入学後はがむしゃらに勉強していたのですが、当初は別の道をめざしていた兄も、税理士をめざすことになったのです。兄弟そろって税理士をめざす必要はないし、自分にはもともとやりたい演劇があった。それなら、自分のやりたいことをやろうと思いました。進学校で勉強に打ち込む意義がなくなってしまったのです。そこで通信制高校に転校し、お金を稼ぎながら舞台役者の道へ進もうと決めました。
──税理士をめざしてがんばってきた力を、役者の道に注ぐことにしたのですね。
井川 そうですね。通信制高校を卒業してからは、1年間声優の学校に行きましたが、実際のお芝居に触れて「声だけよりも身体を動かして表現するほうが楽しいな」と思いました。そこから3年間、劇団に所属して舞台役者として活動しました。
ただ、劇団に所属してもそれだけではお金はもらえませんので、平日の昼間は父の税理士事務所でアルバイトをしていました。当時の稼ぎはそのアルバイト収入だけでしたね。
──舞台出演などのギャラは入らなかったのですか。
井川 運良く関西の深夜枠テレビのエキストラをやらせてもらい、年間10~12万円ほど稼げましたが、収入としては月1万円いくかいかないか。それでも関西の劇団員の中ではだいぶ稼いでいるほうで、舞台での稼ぎはほとんどゼロでした。下手をすると出演舞台のチケットを買い取るために持ち出しをして、売り切れなければマイナスで舞台に出るような厳しい世界です。「ここまでできれば一人前」といった確実なキャリアステップもまったくありませんし、売れている役者よりはるかに実力があっても売れない役者というのはたくさんいて、どこで日の目を見るかわからない世界です。
──劇団に入るとき、どこまで、あるいはいつまでやるのかは決めていましたか。
井川 同級生が大学を卒業する22歳までは自由にやって、そのときの状況で一度ジャッジしないといけないな、とやんわり思っていました。
──実際、22歳のときにジャッジを下したのですか。
井川 とある仕事が直接のきっかけです。深夜枠の映像作品を作るときに、エキストラ兼スタッフという、一番末端で撮影を手伝いながらちょい役で出演もする、という仕事がありました。そのとき、東京から戦隊ヒーローを演じた経験のある4人が主役として呼ばれていたのですが、戦隊ものの主人公として一度は売れた彼らのことを、周囲の誰も知らなかったのです。けれども彼らの演技は本当に上手い。自分はそれまで一生懸命努力してきたと思っていましたが、彼らはその何百倍も努力していて、上手さも、努力の量も、自分とは全然違う。そんな現実を目の当たりにして「あぁ、これはちょっとかなわないな」と思ったことが大きかったですね。そこから税理士をめざそうと考えました。
税理士試験、1年1科目合格
───3年間の劇団生活をやめて税理士をめざすという切り替えはすぐにできましたか。
井川 1月に劇団をやめ、4月から税理士試験の勉強を始めたのですが、気持ち的には辛い部分もありました。自分が所属していた劇団以外は観に行かないようにして断ち切ろうと思ったのですが、自分の劇団を見に行っても「この役は多分僕がやっていたのだろうな」と思ってしまったり、同期がいい役をやっていたりすると悔しい思いもありました。
───方向性を切り替えた時点で、税理士試験の受験資格はあったのでしょうか。
井川 アルバイトとして3年間、会計事務所の勤務経験があったことで、要件は満たせていました。事務所の先輩から「仕事のミスもあまりないので受験に向いている。一度挑戦してみてもいいんじゃないか」と言われていたことも、受験を決意するあと押しになりました。演劇の道を自分の頭の中から消したタイミングと、受験資格を得られる勤務3年というタイミングが重なったいい機会だったので、4月からアルバイトもやめて受験に専念しました。
まず、演劇、パソコン、本、テレビ、ゲームという、自分の好きなことを5つ封印して退路を断ちました。勉強というものから離れていた期間が何年もありましたし、勉強しながら働いている先輩たちは「勉強時間が足りない」と言っていたので、とりあえず今やっている趣味をセーブするのが、最も時間を作れる方法だと考えたのです。
───どのような受験計画を立てましたか。
井川 勉強を始めた頃は、いつか親の後を継ぐかもしれないと思っていましたので、将来、職場の先輩の雇い主になる可能性も見据え「ちょっと箔をつけたい」と考えて、3年で5科目に合格する計画でスタートしました。初年度は4月スタートの簿記論のコースを受講して、簿記論だけを受験して合格しました。残り4科目については、1年に2科目ずつ合格すればいい、合格できなかったら自分が消えてなくなってしまう、という鬼気迫る思いで、根を詰めて勉強しました。
───具体的に、1日の勉強時間はどれくらいでしたか。
井川 38.5℃の熱が出た日でも、10時間は勉強しました。それが最低ラインです。最初の3年間は講義時間と自習時間を足すと12時間以上が普通で、夜中に勉強してそのまま朝の講義に行ったことが何回もありました。
───2年目以降の受験の様子を教えてください。
井川 1年目に簿記論に合格したので、2年目からは2科目ずつの合格をめざして、9月から財務諸表論と相続税法を勉強しました。成績は基本的に上位20%ぐらいの位置に常にいたのですが、年明けから再受験する人たちが合流してくると、少しずつ順位が下がり、ゴールデンウィーク前には「このままだと2科目とも共倒れになる可能性がある」と感じました。
もしそうなってしまったら、もう二度とチャレンジできなくなる気がしたので、それなら1科目に集中して合格を狙おうと考え、相続税法の受験はやめて、財務諸表論1科目に集中する戦略に変えました。こうして2年目は財務諸表論に合格。3年計画は崩れましたが、1科目も落ちない作戦に切り換えました。
───3年目以降はどのような作戦で進めたのでしょうか。
井川 3年目は、2年目の途中まで勉強していた相続税法と消費税法を同時に進めました。相続税法は一度勉強しているので好成績でしたが、初めて学ぶ消費税法は苦戦しました。そして途中から、2年目と同じように受験科目を1本に切り替え、3年目は相続税法に合格しました。4年目は9月から消費税法と法人税法を学び、同じ戦略で消費税法に絞って合格。そして5年目に法人税法に合格しました。
結果的に1科目も不合格がない状態で、5年で5科目に合格しました。当時はなるべく勉強量が多く難しいとされる科目で合格したかったので、国税三法プラス消費税法の中からしか受験しないと決めて、最後に選択必須科目の法人税法を残しました。常に退路を断って生きているので、最後に逃げ道がないのはプレッシャーになってよかったですね。
ただ、ずっと受験に専念していたため、合格後は「とりあえず合格はしたけど、仕事はできないヤツ」になっていたので、たくさんの実務経験を積みたいという思いでいっぱいでした。
32歳まで勤務経験を積む
───合格後はどのように実務経験を積みましたか。
井川 税理士試験合格後、大阪市の資産税特化型事務所に就職しました。そこで資産税を中心に法人担当も務め、1年10ヵ月勤務しました。
27歳で初就職してからは、30歳までに4~5ヵ所、事務所を変えています。自分は組織不適合型人間なのかな、とも思うのですが、そもそもあまり人が多いところが好きではないのです(笑)。完璧主義な性格も手伝って事務所を転々として、29歳からはまた父の事務所で働きました。
───事務所を継ぐという前提だったのでしょうか。
井川 結果的には違いましたね。私は新しいものが好きで、いいものは積極的に取り入れたいタイプ。一方、父は変化よりも安定を重視するタイプなのです。そこで歩み寄れないなら、お互い別々の道をいけばいいということになりました。父の事務所は10名のスタッフがいて税理士もいましたので、いい着地点でした。
───その後、東京で仕事をすることになった理由をお聞かせください。
井川 30歳で東京に出た理由は2つあります。1つは東京に大きな憧れがあったことです。あとになってから「あのとき東京に行けばよかった」と後悔するくらいなら、とりあえず一度出てみたほうがいいと思いました。
もう1つは、大阪で税理士登録をする際の面接の場で、偶然の出会いがあったことです。たまたま隣にいた人が、昔入りたかった税理士法人の方だったのです。私が「入所したいと思っていたんですよ」と話をしたら、「東京事務所なら採用しているかもしれないので連絡してみましょうか」と言ってくれて。その後、東京事務所から連絡がきて、応募したところ即日内定をもらえたので、すぐに上京して家を探しました。
その税理士法人は新規開業案件が多い事務所で、税務担当者として案件をさばく日々でした。その後、31歳のときに個人事務所に転職して、32歳で独立しました。
「自由な時間」を求めて独立開業
───独立開業を考えたのはいつですか。
井川 組織の中で出世していくことにも興味はありましたので、当初は独立志向はありませんでしたね。ただ、自分がやりたいことややりたい方法があっても、勤務する立場では所長の意向に沿ったことしかできません。そういうモヤモヤはなんとなくずっと抱えていました。独立前はメンタル的にかなりしんどくなっていて、とにかく自分の時間を取りたいと強く思うようになったのです。
勤務していると、どうしても時間に縛られます。「今日は特にやることがない」と思っても出社はしなければなりませんし、お昼休みは12~13時と決まっています。「なんでお腹が空いてないのにご飯に行くのか」、逆に「なんですごくお腹が空いてるのに12時まで我慢しなければいけないのか」と思っていたので、私はその時間に休憩を取ったことがほとんどありません。疲れていなければ13時まで休憩を取らず、30分でご飯を食べて、残り30分は15時に休憩を取っていました。右にならえができなければ組織は合わないし、自由に自分の時間を取りたいと思うのであれば、独立しない限りそういう生活は得られないと思いました。
───確かに勤務していると、時間を含め、ルールに従う必要がありますね。
井川 そうなのです。それから、東京で最初に務めた税理士法人時代が本当に忙しくて、朝8時に出社して終電で帰る生活だったことも影響しています。23時の合い言葉が「よし!まだあと1時間仕事できる」で、土日もどちらかは必ず出社でしたね。税理士法人勤務時代は自宅と事務所の往復だけで、まったくオフの記憶がありませんでした。
そんなことがあって「もうああいう生活ではいけない。お金以上に失うものがあるから、これからは生活費さえ稼げれば、無理をしてまで働く必要はない」と考えるようになったのです。それが独立を決めた理由です。
───独立を決めたとき、不安はありませんでしたか。
井川 転職前に担当していた社長様から「井川さんを紹介していいですか」「信頼できるのは井川さんです」と言われて何件か顧問先を紹介いただけましたので、何とかなるのかなと思いました。結果、集客をまったく行うことなく、8月に開業して2~3ヵ月後には普通に生活するぶんは稼げる状態になっていました。
───お客様から信頼してもらえた理由をどうお考えですか。
井川 親身になる、レスポンスを早くする。そして社外取締役に就任している気持ちで、誠意を持って一生懸命やる。それだけです。
───独立時、オフィスはどうされましたか。
井川 以前面接を受けた事務所の所長が「デスクが1つ余っているから月1万円で使っていいよ」と言ってくれて、破格のコストでパソコンも会計ソフトも使わせてもらえることになったのです。その代わり、所長がいない間、スタッフが困っていたらサポートするという条件でした。ゼロからすべてを立ち上げるのは大変なので、ありがたかったですね。
───現在でもそのオフィスを使用しているのですか。
井川 その事務所は半年で出て、西新宿のレンタルオフィスを2019年10月まで借りましたが、現在は池袋に移転しています。それまでは自宅から事務所に通っていましたが、通勤に伴う時間は意味がないなと思い、住居と事務所をひとつにまとめようと考えたのです。
まだ新型コロナウィルスが流行する前でしたが、「もっと世の中はオンライン化していくだろう」「通勤のための移動距離や時間は少なくしたほうがいいだろう」と、世の中がそうした流れになりそうな予感は何となくしていました。
やりたいサービスを、一緒にやりたいと思える人にだけ提供
───独立後、どのような仕事をしていきたいと考えていましたか。
井川 最初は、できないことややりたくないことを考えました。例えば、相続税申告書は書いたことがないので、相続税申告はできない。あるいは、給与計算は毎月必ず時間に縛られるので、受けないようにしよう。そういったことを決めました。やりたいのは、会社の発展に貢献できること。そういう仕事だけをしたいという思いでした。
───どのようなお客様が多いですか。
井川 私自身が拡大路線ではないこともあって、スモールビジネスのお客様が多く、規模的には10数名の法人が多いですね。お客様の業種は多種多様で、特に多い業種はありません。ほとんどが紹介のお客様で、新規設立も多く、設立10年未満の会社がメインです。30代、40代と同年代の経営者が多く、顧客数は20社弱です。顧客とは密接な関係を構築するようにしていて、時間が空くと用事がなくてもメールを入れたり、ちょこちょこアプローチしたりしています。最近はLINEやChatworkでのやりとりが増えましたね。
───密接な関係というと、経営に立ち入った話までするのでしょうか。
井川 まずは近況から話が始まって、基本的に社長が話したいように話していただきます。私から経営のアドバイスはしません。「社長、こうしたほうがいいですよ」と言っても、そのまま採用する経営者はまずいませんので、私は意見を求められれば答える、という程度です。税務の話をするというよりは、経営の悩みや愚痴の聞き役に近いですね。
私に話していただくことで社長の頭の中も整理されていくのかなと思いますので、質問を投げて、社長の気がついていない潜在意識にあるものを引き出してあげられるよう心掛けています。気づいたことに対して、どう対処するかは社長次第です。
───アドバイスをするというよりも、自然と気づいていただく感じなのですね。
井川 そうですね。訪問回数もお客様次第で、必ず毎月お会いする方もいれば2~3ヵ月に1回の方もいて、そこは相手の心地よさに任せています。相手が望んでいないのに毎月行くのは相手の負担になりますし、逆に2~3ヵ月に1度は話したいと思っているのに半年に1回程度だと、それも相手の希望が満たされません。ニーズを探りながら相手の望んでいる部分との距離感をうまくつかみながらやっています。
───先ほど拡大路線ではないと話されましたが、依頼はどのように受けているのですか。
井川 やみくもにお客様を増やすことはせず、自分に合うお客様からの依頼だけを受けるというスタンスです。また費用を値切ろうとする方とは契約しません。そうした場合はたとえご紹介であってもお断りしますし、その場で一緒にもっと安い事務所を探してお勧めするようにしています。
人には、1人勝ちでいきたいタイプと、オールウィンでいきたいタイプの方がいます。私は後者で、何かいい情報を手に入れたりするとまわりの人にも話してシェアします。そういうオールウィンタイプの方と仕事をしていきたいですね。
───お客様と接する際のポリシーを教えてください。
井川 レスポンスは早く、お客様のプラスになることを優先します。フェアでないことは好きではないので、嘘はつきません。
───名刺には「経営ファシリテーター」という肩書が入っていますが、どのような意味でしょうか。
井川 「ファシリテーター」は「促進者」という意味で、会議などの場で参加者に発言を促したり、場の進行役をしたりと、決定権を持たずに円滑に進める役割の人を指しています。「経営ファシリテーター」は私の造語で、「社長に指図はしないけれど、社長のやりたいことを活性化させる経営の促進者」の意味ですね。
税理士といえば税金のイメージがありますが、私自身、税理士という立場に強いこだわりはないので、そのイメージから抜けたいと思って名乗っています。税理士の垣根を越えた幅広い立ち位置で、お客様が真に必要としているサービスを提供して対価を得たいと考えています。
───税理士の垣根を越えた部分として、今後どのようなことに取り組む予定ですか。
井川 「社長が本業に専念できる環境を作るのが私のやりたいことです。社長は頭の中で資金繰りなどお金のことでかなり能力を使っています。それを見える化するだけでも楽になることは自己体験としてあるので、1年後、2年後のお金の流れを資金繰り表にするといったことで、社長が本業に専念できる環境を整えたいのです。そういう仕事をしていきたいですね。
───井川さんにとって理想的な顧客数は何社くらいでしょうか。
井川 世間には年間報酬が20万円という事務所もありますが、そういった事務所では担当者1人当たり月に100社を担当していたりするそうです。単純計算すると、月20日働くとして1日に5社のことを考えなければなりません。私はそうではなくて、顧客数を20件程度にして、1社だけのことを丸1日じっくり考える時間を取りたいと考えています。
なぜ1日1社かといえば、私は中小企業にも社外取締役がいたほうがいいと考えているからです。上場企業には社外取締役は必須ですが、中小企業は社長がすべてハンドリングしています。社長が好き勝手にハンドリングすれば、暴走してしまうことがあるかもしれず、雇われている社員は文句も言えずにストレスをためることになります。社長と社員の橋渡し役がいたほうが会社は成長していきますし、社長の能力ももっと発揮できます。その立ち位置にいるためにも、1日1社の時間は必要だと考えています。
───スタッフの採用は予定していますか。
井川 具体的には考えていません。今はだいぶ変わったものの、私は完璧主義で、以前は周りにも完璧を求めていました。会計事務所には申告書などの内部チェック体制がありますが、「チェックして指摘事項なしは普通」「1つでもミスをするなんてもってのほか」という考えだったのです。それを周囲にも求めてしまう。だから私は組織に向かないし、人は雇わないと決めていました。
今でもプレイヤーでいたいので、人を雇って管理したり、その人の仕事を作ったりする仕事は合わないと思っています。
税理士の顧問契約は「サブスク」の先駆け
───税理士資格を取得してよかったと思うのはどのような点ですか。
井川 収入も安定するし、人脈も広がるし、上場企業の社長と直に話ができて、信頼度の高い社会的地位があるのは税理士の魅力ですね。加えて、税理士というビジネスは定額固定の仕事なので、1社契約が取れれば契約が続く限り収入があって、資金繰りも安定します。最近、音楽業界などで流行しているような定額制サービス、いわゆるサブスクリプションの先駆けのひとつが税理士の顧問契約だと思います。
───税理士としてのやりがいはどこにありますか。
井川 何より、感謝してもらえる仕事だということです。何かのトラブルを一緒に相談しながら解決したり、それが大きな売上につながったりするととてもうれしいですね。あるいは、社長が「こんなことをやりたい」と話していたことがゼロベースから立ち上がっていく過程を見られるのも楽しいです。
───舞台役者のキャリアが税理士の仕事に活かされているとしたらどのような部分ですか。
井川 開業セミナー講師として登壇した際に言われたのですが、私は役者時代に同じクオリティで同じ演劇を何度も演じてきたせいか、セミナーで話すときにも毎回同じ内容を同じように再現しているようです。回によって内容が変わってしまう講師だと講演の改善がしにくいのに対して、私の場合はクオリティが一定なので、講演の課題を見つけやすく、精度を上げやすいという評価を得ています。また、舞台の袖にいるときはとても緊張していても、人前に出ると肝が据わる感覚も舞台とすごく近いので、講演の最中に緊張せず余裕を持ってできることも役者のキャリアが活かされているところでしょうか。
───再び舞台役者の道に戻ることは考えませんか。
井川 舞台役者になることはもうありませんが、ビジネス面でサポートできればと考えています。観覧者の年齢や男女比を調べ、どの層に受けるどんな作品を作るべきかを考えてみたいですね。そこは趣味のような形でボランティアの一環としてやりたいです。
───井川さんのように、拡大志向ではなく、自分のやりたいサービスを、できる範囲でやるというスタンスは受験生にもおすすめでしょうか。
井川 拡大志向で大きくしていく、あるいは独立せずに勤務する、または事務所ではなく上場企業の経理部門に就職するといった働き方だけでなく、私のようにひとり税理士もかなり増えているので、そこはご自身の判断で自由に選んでいいと思います。主婦の方なら、子育てしながらできる範囲でやるのも選択肢としてはアリだと思います。
私には今の感覚が合っているし、あり余るお金を持ったところで使い切れないので、どんなにフィーが高くても嫌なことはやりません。「税理士のこうあるべき」がそもそもないのです。ただし、資格がなければ誰かのもとでしか働けません。資格は受験に専念してでも、早いうちに取り切ることをおすすめします。がんばってください。
[『TACNEWS』 2020年11月号|特集]