特集 企業内で資格を活かす
姫野 智子(ひめの ともこ)氏
中小企業診断士
エンタテインメント企業勤務
経営企画室マネジャー
早稲田大学教育学部数学科卒業、エンタテインメント企業に就職。カスタマー対応、法人営業を経て、現在は経営企画室にて従事。2011年中小企業診断士登録、東京協会中央支部所属。会社内では財務計画やIRのほか幅広く経営企画に関わり経営企画室マネジャーを務める一方で、社外では取材・執筆やセミナー講師、ビジネスコーチングで活躍。「取材の学校」統括講師を務め、取材経験に裏付けされたインタビューには定評がある。私生活では夫と2人の子どもがいる。
中小企業診断士の資格を持つ人の多くは企業内診断士だ。エンタテインメント事業を行う会社に勤める姫野智子氏は、社内でも社外でも、資格をめいっぱい活用している企業内診断士。資格を活かしてさらに会社に貢献していくことが目標だと話す。私生活では2人の子どものママである姫野氏のモットーは、「『好き』でないことは長く継続できない」。仕事も子育ても「好き」で望んだことだから、多忙でもストレスにならずがんばれるのだという。そんな姫野氏に、ご自身の仕事と中小企業診断士という資格についてうかがった。
メディアの魅力を知り情報サービス業界へ
──企業内診断士である姫野さんは、新卒で今の会社に入社されたのですね。
姫野 早稲田大学教育学部数学科を卒業後、ライブエンタテインメントや出版情報サービスを営む会社へ新卒入社しました。最初に配属されたのはコールセンターの運営管理です。その後、2002年日韓サッカーワールドカップの日本組織委員会に出向し、問合せ窓口の責任者となり、大会が終わったあとは法人営業部門に移りました。2007年から経営企画室に異動になり、2011年に中小企業診断士資格を取得して、現在は経営企画室マネジャーをしています。
──なぜ今の会社を選んだのですか。
姫野 マスメディア業界を志望したのは、ちょっと恥ずかしいのですが、高校時代にTV出演をしたのがきっかけです。当時『ニュースステーション』という、久米宏さんと小宮悦子さんがキャスターを務める報道番組がありました。その番組で、高校生の「生の声」をニュースに反映させるという企画があって、ディレクターの方から、小宮アナウンサーの出身校である私の母校(川越女子高校)へ連絡がきたのです。
私は高校3年間ずっと文化祭実行委員をやっていたのですが、TVディレクターとの窓口になった先生が文化祭実行委員会の顧問だったこともあり、「出演してみないか」ということになりました。当時は高校3年の冬。他の生徒は大学受験の追い込みで必死な時期でしたが、私は「今年だめなら浪人すればいいや」とのんびりしていたので声を掛けてもらえたのかもしれません。そうして、数ヵ月の間に3回か4回、番組に出演しました。短い期間でしたがこのときに、生放送で発言するということの影響力の強さを知りました。また同時に、本当に多くの方の仕事や気づかいがあって、ニュース番組ができるのだということも。メディアはこうやって発信されているのだと知り、大きな魅力を感じました。高校時代ずっと文化祭実行委員を務めるほどお祭りやイベントが好きだった私に、情報を発信するメディアという要素が重なって、今の会社の選択になったと感じています。
──大学で教育学部の数学科を選んだのはなぜでしょうか。
姫野 教育学部数学科を選んだのは、理系科目を学びながら文系的なことも学べたらいいな、という漠然とした希望があったからです。得意科目は理系なのですが、教育や心理学に興味を持っていたので、学問としてそういうことも学びたいと思っていました。今、私は講師やメンタルトレーナーの活動もさせていただいていますので、こうして振り返ってみると昔からそういう“種”はあったのだと思います。
──早稲田大学では、学業成績優秀者しか受けられない「大隈記念奨学金」を受けていますね。
姫野 ええ、でも最初から成績がよかったわけではないのですよ。大学に入ったばかりの頃は、大学の数学の難しさに面食らって嫌になった時期もありました。高校までの数学は、楽しくてパズルみたいに問題を解けていたのに、大学で学ぶ数学は抽象度が高すぎて意味がわからない。1次元、2次元はわかるけれど「n次元を考えましょう」とか、「平行線が無限遠点という遠くで交わる空間で考えましょう」とか、果たしてそんなことを考える意味はあるのだろうかと疑問に思ってしまって。難易度の高さに、学ぶ意義を見出せなくなってしまいましたね。
でもこのとき、ただ嫌いだからと逃げてしまうのではなく、まずはとことん向き合ってがんばってみようと気持ちを切り替えたのです。そしてちょうどその頃、前年度の奨学金受給者の中に高校時代の同級生の名前を見つけました。私は大学受験で1年浪人したので、彼女のほうが1学年上だったのです。彼女の名前を見たとき、雲の上だと思っていた大隈記念奨学金が手の届く目標のように感じられて、「自分も受給者になれるかも!」と思うことができました。めざしてみるのもいいかもしれない、結果にこだわってみようと考え、それからは奨学金を受けることを数学に向き合うモチベーションにして、1年間とことん勉強しました。数学というのは、現実はいったん脇に置いておいて、仮説として立てた世界でどういう動きをするのかを考えるので、本当にクリエイティブそのものです。こうして懸命に学ぶことで、数学の奥深さや楽しさを知ることができました。「できない、嫌だ」と思っていたことを「得意で、好き」なことへ変えられたのはいい経験になりましたし、奨学金をいただくという結果を出せたことも大きな自信になりました。
──そして難関のマスコミ業界へ就職されました。
姫野 採用試験の二次面接では、ニコニコした男性に「君は編集の仕事をやりたいと言うけれど、もし編集の部署に行けなかったらどうするの?」と聞かれたので、この奨学金にまつわるエピソードを話しました。自分は、苦手で嫌いと思っていたことでも、やってみたら楽しくなったし結果を出せるという経験をした。だからもし編集とは違う仕事であっても、とことんやってみたら好きになるかもしれないし、それでも編集がいいと思ったとしたら「編集をやりたい」と言い続けるかもしれません、と。あとで聞いたら、その男性の方が私のやりたいと思っていた雑誌の編集長だったようです。入社できましたから、その回答は多少なりとも評価してもらえたのかなと思います。
経営を知らなければ、先に進めない
──中小企業診断士(以下、診断士)の資格取得をめざしたのはなぜでしょうか。
姫野 法人営業をしていた30歳手前頃のことですが、お客様からの要望には大体応えられるようになったと思いつつも、自分の力不足を感じるようになりました。例えば販促のための広告を出していただくには、クライアント企業が抱える課題を解決しなければ難しい。でもその課題が、クライアント様が認識されていることとは違うところに、もっと大きな課題としてあるのではないだろうか。そう思いながらも、何をどう伝えればいいのかわからなかったのです。一般的な経営のセオリーや考え方のフレームというものがきっとあるはずなのに、私はそれを知らない。そうもどかしく感じていました。そこでまず、ビジネススクールへ通い始めました。経営をもっと知らなければこの先のステップへ進めないと思ったからです。すると、私がビジネススクールに通っているということを聞きつけた当時の経営企画室長が「経営に興味があるならうちの部署へ移ってみないか」と声をかけてくださって。カスタマー対応から法人営業という経験を経て、スタッフ部門である今の経営企画室への異動となりました。
経営企画室に入って最初に担当したのが、社長の出席する会議のほとんど、1年に約250会議に同席して議事録を作るという仕事でした。これが非常に大変で、話している言葉がわからないということも多々ありました。「ゲンシ(減資)の可能性はあるか?」などという発言を聞いても、「ゲンシ?ゲンシって何だっけ?」という感じで、議事録にどう記載すればいいかわからないのです。役員の話す内容をもっと理解しないと正しく議事録に落とし込むことができない。きちんと広く網羅的に経営の知識をつける必要があると思い始めました。そして、その思いを強くするきっかけになったのが、会社の業績悪化でした。
新聞で知った自社の業績不振
──多額の最終赤字が出たという2008年3月期決算ですね。
姫野 そうです、私が経営企画室へ移った1年目でした。システムトラブルを発端として業績が悪化し、約300人いた正社員の3分の1の人に希望退職者を募集することになったのです。本当に驚きました。経営企画室という場所にいて、会社の経営陣たちが出席する会議の議事録を作る仕事をしていたにもかかわらず、自分の会社の状況を、世の中の他の人たちと同じように、新聞の朝刊で知りました。複雑な思いでしたね。経営企画室にいるのに会社がこのような状況になっているのが悔しかったですし、自分はまだ、こういう重要な意思決定に関われるレベルではないんだなと痛感しました。会社に残るにしても、もっと会社の役に立つ人間にならなくてはいけないと思いましたね。それまでは漠然と経営の知識をつけたいという気持ちでいたのが、このときに一段ギアが入り、本気でやらなければいけないと思いました。
業績悪化時は大変でした。社員が3分の2に減ったのですから会社に残るのも“地獄”で、残業時間が200時間位の状況が数ヵ月続きました。特に経営企画というのは、会社をその後どうやって立て直していくかということを策定し、社内に伝えていく部署ですから、立ち止まってはいられません。そんな状況の中で私は体調を崩してしまいました。気持ちは高ぶっているのに、身体が何かおかしい。数ヵ月経ち業務が少し落ち着いて残業がなくなっても、体調が戻らない。病院へ行き調べてもらったところ、腎臓病になっていたのです。それも国で難病指定されているような種類の腎臓病で、医者からは「明日から3ヵ月入院してください」と言われました。自分としてはそこまで辛いわけではなかったのですが、検査の数値が悪くこのままでは半年位で透析になるかもしれないと言われました。それで慌てて入院したのです。
入院したことで否応なく、キャリアについて立ち止まって考える時間ができました。業務に追い立てられて、身体まで壊して、私は何をやっているのだろうと思う中で、やはり経営を一度、網羅的に学びたいと思い至りました。そして病室にパソコンを持ち込んで調べた結果、診断士という資格があることを知ったのです。いろいろな受験指導校を比較検討した結果、TACへ通うことにしました。決め手は合格者数が一番多かったことです。合格者を数多く出している学校は、それだけ経験値が豊富で、受験生を合格に導くためのノウハウも多く蓄積されているはずだと考えたのです。また講義の振り替え受講ができたり、Webでフォローアップできたりと、社会人が通いやすい体制が整っていたのも魅力でした。そして2009年3月に退院したあと、7月からTACに通い始めました。
メンタルの弱さを痛感した初受験
──会社に勤めながらの勉強は大変でしたか。
姫野 そうですね。私は資格を取るまでに2年かかったのですが、1年目はかなり勉強に時間を割きました。当時はまだ独身でしたので、仕事の調整さえできれば時間が作れたのです。朝1時間勉強してから会社に行き、夜の8~9時に帰宅してその後2~3時間勉強するという感じで、日に3~4時間ペースで、週末の時間も勉強して週35時間、いわゆる「ちょっと多めな学習」でした。
実は7月から勉強を始めてしばらくした頃、父が末期がんだということがわかって、最初は「半年もたないかも」と言われました。1次試験まであと半年位だったので、予定どおり試験を受けられるだろうか、と思いつつ勉強していました。父は宮崎に住んでいたので、月に1回帰省するのがやっと。でも勉強している時間は少しだけ父の病気のことを忘れることができたので、まるで写経でもするような感じで勉強していましたね。
──そうして迎えた初受験はいかがでしたか。
姫野 初めての1次試験では、あと1マーク差で不合格になりました。1次試験の初日1科目の経済学の試験で今まで見たこともない難問が出て、人生で初めて「頭が真っ白になる」という経験をしました。私は大学時代に力を入れていたスカッシュで試合経験も多く、本番には強いほうだと自認していたのに「想定外のことになるとこんなに駄目なのだ」と自分にびっくりしました。試験中、震える手で答案を見直すのですが、もう全部が不安になってくる。試験終了間際に4つほどマークを書き直しましたが、それが全部外れました。笑えない話ですが笑っちゃいますね。7科目トータルで700点満点のうち6割以上の得点、つまり420点が合格基準だったところ、私は417点でしたから、あと1マーク(4点)正解していれば、という所で不合格になったのです。自分は勝負事に強いと勘違いして、メンタル面での準備を何もしなかった結果、頭が真っ白に。もちろん、それを上回る力をつけていればよかったのですが、自分の体調のことに父の看病のことが重なって、メンタルも相当弱っていたのだろうと思います。
最初の試験に落ちて落胆し、父にも残された時間が少ないというとき、こうした状況に立ち向かうには自分でメンタルを整えてコントロールすることが必要だと痛感しました。それからは、本を読んだりセミナーやスクールに通ったりして、メンタルコントロールや体調管理の勉強を始めました。それが今のコーチングやメンタルトレーナーの活動に繋がっているのですから、1年目の失敗は、結果的にはよい経験になったと思います。
──2年目の勉強はどのように進められましたか。
姫野 私が初受験をしたその翌年の2011年3月、ちょうど東日本大震災が起きた5日後に父は亡くなりました。当時は自分だけでなく他の受験生も大変な状況で、TACも講義がお休みになったりしていましたが、父の四十九日法要を済ませて講義も再開されるようになると、自分の中で気持ちに区切りがついたというか、もう前を向くしかないと思えるようになりました。2年目の受験は勉強のペースも週20時間位にして、コンスタントに、でもやり過ぎないことを心掛けました。TACでは2次本科生のコースに通いましたが、講師にも学習方法について相談にのってもらえましたし、講義後に仲間と自主的な勉強会をして理解を深めるなど、学習環境に恵まれたと感謝しています。学力が備わってきていたので、当日盤石に力を出すために体調やメンタルを整えることにも注力しました。
大事な場面で「頭が真っ白」にならないためには、起こりうるいろいろなトラブルをあらかじめ想像しておいて、そのときの対処法をイメージし、すべてを想定内にしておくことが大事だと思います。例えば、水に溺れている人というのは、自分が溺れているということを自覚しないままパニックになっていると聞きます。「今、自分は溺れている」と客観的にとらえることができれば、助かるための次の行動につなげられます。例えば「自分の呼吸が浅くなって体がこわばった感じがしたら、パニックに陥っている兆しだな」と、体の変化のサインから、自分の状況を客観的に頭で認識できるようにイメージトレーニングをしておいて、「そうなったら胸を張って大きく深呼吸をしよう」と、対処法を決めておきます。つまり、パニックにならないようにしようとするのではなくて、「パニックにはなるものだ」と想定しておいて、実際にパニックになったときの「避難訓練」をしておくのです。客観的に自分を見る方法と対処法を用意しておくことで冷静を保ちやすくなりますし、サポートさせていただいた受験生の体験をお聞きした感じだと、「避難訓練」もしたし「救命道具」も持っているぞという安心感があるようで、そもそもパニックになる確率を下げる効果もあると感じています。
「時間」という有限資産のポートフォリオを組み直す
──診断士の資格を取得されてから、会社での働き方に変化はありましたか。
姫野 資格を取ったことは、任される仕事の質が一段高いレベルになるきっかけになったと思います。経営企画室にいて、業務に関連の高い資格を取得するということは「自分はこの部署でもっと貢献したいです」という意思を伝えるようなものですから。上司や同僚も、そこまでやる気があるならワンランク負荷の重い仕事を任せようかと思ってくれたのか、任される仕事の幅が広がったように思います。経営課題の解決策のプランニングをして経営会議へ上程するといった仕事にも関わるようになりましたし、株式IRや、財務のキャッシュフローの予測管理、取締役会に上程する議案の管理や資料作成も適宜任されています。与えられた仕事に積極的に取り組んでいったことで、今自分がやれることよりもストレッチした仕事を要求されるようになってきました。それはすごくありがたいことだと思っています。
──社外での仕事についてはいかがですか。
姫野 診断士になって、協会のイベントなどに参加すると、さまざまな研究会のお誘いや仕事の話がきます。研究会に顔を出してみるとおもしろい出会いがたくさんありますし、「こんな仕事をやってみませんか」といったお話もいただけます。合格直後から、合格体験談をお話しする機会から始まり、セミナーの講師や診断士試験の合格分析本の執筆など、さまざまな仕事をやらせていただきました。
──社内で求められる仕事の内容がレベルアップして、さらに社外の活動も行うというのは大変ではありませんでしたか。
姫野 社外の活動は、平日の夜や土日に限られるので、やはり時間に制約があります。実は、今思い出しても冷や汗が出ますが、診断士になって最初の冬に、いただいた仕事がバーストしてしまったことがあります。診断士登録した1年目は、ルーキーイヤーではないですけれど、いろいろとお声がけいただく機会が多いのです。「参加してみたいです」「やってみたいです」と手を挙げているうちにかなりの案件を受けてしまって、気がつけば納期が全部一緒、といった状態に。そして、そういうときに限ってといいますか、納期の間際に大風邪で39度の熱を出して間に合わなくなり、「すみません、できません…」という状態になってしまったことがありました。本当に苦い経験です。
そのとき「こんな風に無計画に仕事をお受けしてはいけない」と思いました。「選択と集中」だ、中小企業の経営だってそうじゃないか、と。そこで、「時間」という有限資産のポートフォリオを組み直すことにしたのです。「選択」することを考えたとき、まず「好き」でないと継続できないな、と思いました。それまでは自分にないものや、できていないことばかりが目について、あれもこれも身につけなければと焦っていました。でもふと、「本当にやりたいことや、自分の強みや弱みをどのように考えるべきだろうか」と自問してみたのです。その結果、自分に足りないものを補う努力は必要にしても、時間が限られている以上、自分が「好き」か「できる」ことをもっと増やして伸ばしたほうがいいのではないかと思い至り、改めて、自分の「好き」「できる」を整理することにしました。人前で話すことや、人とコミュニケーションをとることは好きで得意だから、この辺にフォーカスした仕事を増やしていこう。書くことは多分もっと得意な人がいるから無理をせず、やれる範囲でやっていければ…という形で絞っていきました。それでも業務が重なって忙殺されることはありますが、好きなことをしているという気持ちがあるから、がんばれるのだと思います。
資格取得後の選択肢
──姫野さんのご結婚相手も、TACで学び資格を取得された診断士だそうですね。
姫野 同じ年に合格していますが、受験生の頃は知り合っていませんでした。ふたりとも2011年のTAC合格祝賀会の集合写真に載っていますが、私は最前列のほぼ真ん中をキープしている一方で、夫は小さく遠く後ろのほうと、各々性格の出る写り方をしています(笑)。夫とは診断士の研究会で知り合い、『ふぞろいな合格答案』(同友館)という診断士試験の合格分析本の執筆プロジェクトで同じ班になりました。夫が班のリーダーで、第一印象は地味な感じでしたが、いざ会議が始まると、なかなかバランスよく話を進めるのです。「あぁ、こういう言い方をすると角が立たずにまとまるのか、若いのになかなかやるな」と思いましたね(笑)。実は、私達の結婚のきっかけにもTACが関わっています。TACの診断士講座が主催する合格者セミナーで話をする機会があったのですが、彼もたまたまそこに呼ばれていたのです。セミナーの帰りに、ふたりで食事をしたのが親しくなるきっかけでした。出会った頃の夫はシステムインテグレーターの会社に勤めていましたが、当初から独立志向で「絶対に独立する」と言っていました。私達が結婚したのは2013年ですが、入籍した月に彼は会社をやめています。
──姫野さんご自身は、独立を考えたことはありませんか。
姫野 夫の独立を見て、多少浮き足立つ部分はありました。「独立って楽しそう」と思わないでもなかったですね(笑)。ただ、結婚して夫も独立したという状況下で、自分の将来を考えたときに、まずは出産や子育てというライフイベントに注力したいと思いました。そう考えると、いまの社員という環境で活躍できる道を求めていったほうがいいだろうと思いましたし、共働きでの子育てを想像した場合、夫が経営者である以上、私はサラリーマンでいるほうがバランスもいいかなと思いました。私は今の会社が好きで社長をとても尊敬していますし、役員や上司にも恵まれているので、会社に貢献できる方法を探したいですね。エンタテインメント業界は今、コロナ禍で大変な時期ですが、こういう状況だからこそ、ピンチをチャンスに変えて、「ではどういった手を打てるだろうか」と知恵を出せるように自分を高めていきたいと思っています。
仕事と子育ての両立も「好きだから」続けられる
──現在2歳と5歳のお子さんがいて、会社と子育てを両立し、社外で講師や執筆活動。日々どうやって過ごしているのでしょうか。
姫野 うやっているのか、自分でもよくわからないですね(笑)。目の前にあるやるべきことを、「ちぎっては投げて」仕事を片付けている日々です。今日も夜中の3時に起きて、朝の8時まで仕事をしてきました。「ごめん、パン食べておいて!」と言って、子どもが朝ごはんを食べている間もパソコンにかじりついていました。子どもの寝ている間が仕事を片付けるチャンスなので、平日の睡眠時間は多くはないです。でも、多少無理はしていますが、それでも無茶はしていません。「好き」と「できる」のフィルターで仕事を絞っているから、続けられるのだと思います。子育てに関しては、自分が優等生だとはまったく思わないです。出来は6~7割程度で、足りない部分は多々あるのでしょうが、何よりもまず家族が笑顔で健康でいることを最優先にしています。子どもに何か注意信号が出たら、とにかく子どもを優先させて仕事は後へ回すとか、バランスを見て判断することを心掛けています。
──診断士をめざす方々にメッセージをお願いします。
姫野 診断士の資格は、「エンタメ的」に言うと、テーマパークの入場チケットだと思います。そのチケットを持って、どの乗り物に乗るか、どう楽しむかは本人次第。「これがしたい」と明確な目的を持って行動すれば、きっとご自身の満足する時間を過ごせて、結果も得られる場所だと思います。多くの人とのご縁や出会い、仕事や人生の幅を広げる可能性はそこに確かにあるのだから、その入場チケットを手に入れるだけでも、大きなチャンスではないでしょうか。「そこから見える世界」を信じて勉強すれば、資格を手にしたあとの世界もきっと広がっていくと思います。
[『TACNEWS』 2020年11月号|特集]