特集 元オリンピック選手のキャリアチェンジ~USCPAへの転身~

  
森 奈賀子さん
Profile

U.S.CPA(米国公認会計士)

森 奈賀子氏

森 奈賀子(もりながこ)
1975年9月生まれ。千葉県出身。1995年から2006年の間、スノーボードハーフパイプ選手として活動。2002年2月の第19回ソルトレークシティ冬季オリンピックでは日本代表に。現役引退後は外資系銀行の派遣社員からキャリアをスタートさせ、2016年6月にはU.S.CPA(米国公認会計士)に合格。大手IT企業での管理会計業務を経て、現在は経理・財務系のスペシャリストとして活躍している。

 30歳で学歴なし、貯金なし、正社員として働いた経験もなし…。そんな状態から自分を変えた先輩がいます。元スノーボードオリンピック選手の森奈賀子さんは、現在経理・財務のスペシャリストとして活躍中。現役引退後は派遣社員からキャリアをスタートさせ、大手IT企業への転職に成功。U.S.CPA(米国公認会計士)試験にも合格しました。キャリアゼロの状態からどのように就職・転職を果たしたのか、U.S.CPAの受験で何が変わったのかなど、率直に語ってもらいました。

20歳で一家離散し車中生活にスノーボードの賞金で食いつないでいた

──森さんがスノーボードの日本代表になるまでの経緯を教えてください。

 会社を経営する父とピアノ講師の母、姉ふたりの5人家族の三女として千葉で生まれ育ちました。幼い頃からよく家族でスキーに行きましたが、運動はそれほど得意とは思っていませんでした。母の影響で音楽が好きな子どもでしたね。
 父の会社は祖父から受け継いだもので、苦労知らずの父はお金を好き放題に使っていました。車を何台も買い換え、ゴルフに熱中して経営には無頓着。そんな父を母が責め、家では言い争いが絶えません。私は勉強する意欲が起きず、中学、高校と学校では寝てばかりいました。偏差値は37から39くらいだったと思います。高校卒業時に進路が決まらなかったので、スキーの専門学校に行くためにトレーニングを始めました。18歳の時、スノーボードにも挑戦してみたところとても楽しく、アメリカで合宿に参加したり、プロに話を聞いたりしながら腕を磨いていくうちに1年でスポンサーがつくまでになりました。
 ところが20歳の時、父が会社と家庭をそのまま残し、財産 をすべて持って失踪してしまったのです。自宅は出なければならなくなり、一家は離散状態。お互いに連絡を取ることもできなくなりました。母は地獄にいるような気持ちだったと思います。私と姉には車が一台だけ残されたので、車で寝泊まりをしながらスノーボードの大会を渡り歩き、入賞賞品を売ったり、スポンサーからのサポートを受けたりしながら生活するようになりました。インスタントラーメンやスーパーの試食でお腹を満たし、合宿では他の選手の残したご飯をタッパーに入れて持ち帰る。眉をひそめる人もいましたが、気にしていられないくらい必死でしたね。その後、師事したコーチの家で下宿できることになり、車中生活は終わりました。私の場合、お金を得る唯一の手段がスノーボード。一生懸命勝ち進んだところナショナルチームに誘われ、結果的にオリンピックをめざすことになったという経緯です。

──26歳の時には日本代表として第19回ソルトレークシティ冬季オリンピックにも出場されました。引退を決めたのはなぜですか。

 10年ほど現役で大会に出ていたのですが、オリンピックのあとから怪我に悩まされるようになりました。最後のほうはスポンサーもコーチもつかなくなっていたため、練習代など、競技にかかる費用はアルバイトでまかなっていました。それでも赤字で銀行からの借入が毎月20万円もあるため、昼も夜も働いて週末に練習。体も心もボロボロです。やっとの思いで大会に出ても、若い選手たちが繰り出す見たことのない新しい技には太刀打ちできません。決定的だったのは、30歳くらいの時に出場した全日本選手権で転倒し、脳しんとうを起こしたことです。自分がどこにいるのかもわからなくなり、怖くてたまりませんでした。「私にはもう帰る家はない、これ以上怪我もできない。引退して堅実な仕事に就こう」、そう強く思いました。

派遣先で一から仕事を覚え、英語力を鍛える自分から「仕事をください」と頼み込んだ

──引退後は派遣社員として外資系の信託銀行にお勤めになりました。その動機を教えてください。

 当時は派遣で働くことが流行り始めた頃でした。時給の高さに惹かれ、軽い気持ちで派遣会社に登録しました。英会話には自信があったので外資系企業を希望したのですが、採用試験を受けたところ「あなたの英語レベルでは紹介できる会社がひとつもありません」と言われてしまって。それでも、外資系信託銀行で郵便物を開封する1週間限定の仕事を紹介してもらえました。働き始めると、「オリンピック選手が来てくれた!」と役職に就いている方々に毎日ランチに連れ出してもらえました。そこで「コピー取りでもなんでもいいので仕事をください」とお願いし、最終的にはその信託銀行で2年間働くことができました。

──企業で働いた経験がない森さんですが、どのようにして仕事を覚えたのですか。

 顧客レポートの管理を行う部署でメインに働いていたので、文書のコピーやファイリング、パソコンの使い方など事務仕事の基礎を一から教えてもらいながら覚えていきました。その他並行して3つの部署を経験し、銀行や信託、投資がどんな仕組みで動いているかを学ぶことができました。また、自分の英語がビジネスの場ではほとんど通用しないことも実感できたので、積極的に外国人の方と英語でコミュニケーションを取って語彙力を高め表現の幅を増やすようにしました。

──次の会社で働くことになったのはなぜですか?

 ちょうど派遣契約の更新の頃、働いていた信託銀行が買収されることになり、継続して働くことができなくなってしまったからです。次の仕事のあてはなかったので、他の外資系企業で働く外国人の友人たちに「何か仕事があったら紹介してね」と頼んでおきました。そして、引退後初めて貯金ができたので、ニューヨークに1週間ほど旅行することにしました。すると、友人が「ニューヨークに本社がある投資顧問会社が、日本支社のアシスタントを募集している」と教えてくれたのです。そこで、ニューヨーク滞在中に本社を訪ねて面接を受け、その場で正社員として採用が決まりました。信託銀行で英語力を意識的に鍛えたため、語学力をアピールできたのが決め手だったと思います。

──投資顧問会社では、どのような業務を担当されたのですか。

 渋谷にある日本支社で、投資アナリストのアシスタント業務を5年間行いました。具体的には、所属しているアナリストたちの会議設定やスケジュール管理、経費精算や総務全般です。また、日本上場企業決算説明会にアナリストの代理として出席してレポートを渡したり、アナリストが作成した財務諸表モデルのアップデートなども行なっていました。

白紙で出した1回目の日商簿記3級試験生まれて初めて「勉強のやり方」を知った

──この頃、日商簿記2・3級を取得されていますね。勉強を始めようと思ったきっかけを教えてください。

 少し話がさかのぼりますが、信託銀行時代に「簿記を取って契約社員にならないか」と誘われたことがありました。「本を一冊読めば大丈夫だよ」と言われたので、本当にその通りにして日商簿記3級の試験会場に行ったのですが、手も足も出ません。結局、15分間答案用紙を見つめただけで退出するしかありませんでした。勉強経験がないので、机の前に1時間座ることはもちろん、問題を解くために自分に何が足りないのかがわからなかったのです。独学では絶対に無理だとようやく気づき、自宅近くにあるTACの渋谷校に通うことに決めました。

──そこで、勉強ができるようになったのですね。

 それが、講義中は最初から最後まで寝ていました。活字を読むことや、文字を自分で書くことに耐えきれず、体や脳が拒否したのでしょうか。眠くてしょうがなかったのです。模試は受けましたが15点くらいだったと思います。その時の講師には本当に申し訳ないことをしました。

──それでもあきらめずに日商簿記3級に再チャレンジし、合格されました。その理由を教えてください。

 投資顧問会社に出入りしていたIT担当の女性と親しくなり、応援してもらったからです。彼女は日商簿記2・3級などいくつもの資格を持ちながらも常に勉強を続けている努力家です。私があまりにも勉強ができないので相談したところ「やればできる」「あなたなら必ずできるよ」と何度も励ましてくれました。それがとてもうれしくて、「資格を取って彼女のように自信を持ったすてきな人になりたい!」と奮起。再び日商簿記3級の講座を申し込んだのです。
 2度目のチャレンジ。講義は「絶対に寝ない」と固く心に決め、一番前の席に陣取りました。眠気覚ましのガムをたくさん噛んで、先生の説明を聞いて、ノートを取る。復習をして、宿題を必ず終えてから次の講義に出席する。この基本的なことを繰り返していくと、3級も2級も最短で合格することができました。勉強に向かうための基本姿勢と、「わからないことをわかるように自分で整理する方法」がやっと身についたからだと思います。それが36歳の時です。

自分にとってのオリンピックを超える挑戦がU.S.CPA受験だった

──その後、U.S.CPAの受験を決意したのはなぜですか。

 日商簿記2級に合格後、東日本大震災の影響で日本株が急降下し、勤務先の投資顧問会社の日本撤退を間近に控え、人生初の解雇を経験しました。ハローワークに通いながら転職活動を始めましたが魅力的な求人はほとんどありませんでした。この年齢で、アシスタント経験しかない私。この先ずっと働いていけるとは到底思えません。幸い、まとまった額の退職金と貯金が手元に残っていました。「お金も時間もある今、何をする?」と考えたところ、「せっかくオリンピックを経験しているのだから、それを超える大きなチャレンジをしてみたい」という気持ちが湧いてきたのです。そこで、TACの方に相談してみたところU.S.CPAのパンフレットを渡され、「これだ」と決めました。

──数ある資格の中で、U.S.CPAを選んだのはどうしてですか。

 理由は3つあります。1つ目は、自信のない自分を変えるためです。私はお話しした通り、まともに勉強をしてきませんでした。勉強するための基礎力が不足しているので、他の人と比べて理解が遅く、集中力も続きません。それがずっとコンプレックスで、「私には何もない」と泣くこともありました。そんな私にとって、U.S.CPA合格はオリンピックに出るより困難な課題。猛烈に勉強したとしても合格するかはわかりません。だからこそやりがいがあると感じたのです。
 2つ目は、もっと英語力を伸ばしたかったから。それまで、TOEIC® L&R TESTを10回以上受けていたのですが、600点以上得点できたことが1度しかありませんでした。英語を英語で勉強することに行き詰まっていたのだと思います。ですので、会計などの知識を英語で学ぶことで、両方のレベルアップを狙いました。
 3つ目の理由は、有利な条件で転職したいと思ったから。会計知識のベースは日米共通なので、U.S.CPAを取得すれば日系、外資系両方の企業で働くことができ、選択肢が広がります。40代を迎える前に、一生食べていくのに困らない自分になりたいという切羽詰まった気持ちがありました。

──実際に勉強を始めてみていかがでしたか。苦労した点などを教えてください。

 大学を出ていない私がU.S.CPAを受験するためにはかなりの量の単位をTACが提携している大学で取得する必要があり、それがまず大変でした。でも、TACの講師の方々がスケジュールを一緒に考えてくださったので、集中して単位を取り切ることができました。また、U.S.CPA試験は制度が複雑で、私の条件では受験できる州がひとつしかありません。州によって受験前の準備が異なるため、同じクラスの大卒の知人たちとは何も共有できませんでした。デッドラインまでに手続きが間に合わなくなりそうな時は、電話でやり取りをしながら不安で体が震えて涙が出ましたね。
 勉強の内容も、もちろん手強かったです。1年半ですべて合格するつもりでいましたが、最初の2年間はひとつも合格することができませんでした。単位のこともあり、知識が積み上がるのに相当の時間が必要でした。さらに、心のどこかで「マークシートなのだから、どこか塗れば当たるのでは」という甘えがあり、理解が曖昧な部分をそのままにしてしまっていました。加えて、「都会に住む稼ぎのいい自分」というセルフイメージにも酔っていたと思います。
 「合格できない、お金もどんどん減っていく」と友人に泣きつくと、「無職の今、渋谷に住む必要ってある?」と冷静に返されて目が覚めました。すぐに家賃が半額程度に抑えられる地元の浦安に引っ越し、近所の図書館や公民館、駅前のファストフード店などを活用してなりふり構わず勉強しました。プライドを捨て、勉強に没頭してわからない箇所を徹底的に潰していくと、「あと2点で合格」というラインに乗るようになってきました。合格点に達しなくても履歴書には書けるので、受験3年目からは派遣社員として中小企業の経理の仕事を担当しながら勉強を続けました。

初の経理業務で戦力外通告やる気に火がつき、適性がわかった

──初めての経理の実務はいかがでしたか。

 戦力にならず、半年勤めて契約更新を断られることが2社続きました。「会社のリスクになるので辞めてください」とまで言われ、悔しかったです。だから、「絶対にU.S.CPA試験に合格してやる!」とやる気に火がつきました。
 でも、実務経験もない若くもない私が経理の現場を経験できたのはラッキーでした。経理や監査の実態を目の当たりにできましたし、知識と実務の差を感じることができました。何より、私には財務会計よりも管理会計のほうが向いているとわかり、正社員への就職活動を成功させることができたのは大きな収穫でした。

──財務会計よりも管理会計の方が向いているというのは、どういうことでしょうか。

 会計の中には財務会計と管理会計の2種類があります。財務会計はルールに沿って会計に関わるいくつもの書類を作り、外部に報告すること。基準や期日を守ることが厳しく求められます。いわゆる経理の仕事です。一方、管理会計は企業の内部、特に経営者層が自社の方向性を決める時に必要な書類を作成し、報告すること。彼らが必要とする指標を中心にまとめるので、会社ごとに内容は違い、特定のルールもありません。
 管理会計には、部署をまたいでの情報収集力が求められるので、人とのコミュニケーションが得意な私には、経理よりも管理会計が合っているとコンサルティング会社の方や面接先の企業の方にアドバイスを受けました。そこから、日本の大手IT企業での管理会計のオファーがあり、思い切って挑戦して転職することができました。

──転職にあたって、U.S.CPAを勉強したことは役立ちましたか。

 その頃には合格科目がふたつあったので、履歴書に書くことができました。また、入社試験の代わりにTOEIC® L&R TESTを受けて800点以上取れれば採用とのことで、820点を獲得して内定をもらうことができました。実は、1回目のTOEIC® L&R TESTで780点しか取れなかったのですが、「受かるまで待ちます」と言っていただいたので、2週間勉強し直して2回目で40点アップさせました。U.S.CPAで「自分の弱点を徹底的に潰す」ということをやり込んできたので、違う試験でも応用できることに気づきましたね。

──すべての科目に合格したのはいつですか。

 転職して翌年の2016年6月に4科目を合格することができました。受験4年目、40歳の時です。すべての科目を3~4回は受け、最後の年は正社員の仕事と平行しながらの勉強 だったため辛かったですが、最後まであきらめなくて本当に良かったです。

開発予算の管理会計を担当。英語での業務やコミュニケーションがスムーズに

──転職先では、どのようなお仕事を担当されましたか。

 企業全体の3割を占める開発部の予算を、各事業会社が正しく見積もりを作成できるようにシステム上でコントロールを行っていました。加えて、海外チームのサポートや、翌年の予算策定に関わるプレゼンテーションの日本語と英語のプレゼンテーターも担当しました。会計に詳しくない外国人の方からの質問にも英語で対応することができ、自分の成長を実感できました。

──会計知識ももちろんですが、英語力が飛躍的に伸びたのですね。

 U.S.CPAの勉強しかしていないのですが、英語の文書を読んだり、メールを書いたりするのは問題なくできるようになりました。他の人が書いた英文の間違いも、すぐに見つけられるようになったくらいです。そこで、海外から入社したばかりで会社に馴染めていない人に英文チャットで相談に乗るようにもなりました。また、コミュニケーション不足で疎遠になっていた海外子会社と積極的に英語でやりとりをし、関係を改善することもできました。英語で相談を受けたりするのは本来の業務ではないため、難色を示されたこともあります。それでもあきらめずに続けたことで認められるようになり、最後のほうには当時の上司から「自分の右腕的ポジションになってほしい、育てたい」とまで言ってもらうことができました。

転職1年目に運命の再会。U.S.CPA合格で叶えたい夢がはっきりした

──資格や知識を活かして活躍し、必要とされた勤め先を退職されたのはなぜですか。

 私の現在婚約中の方の家業を手助けするためです。しばらくの間、会社で働きながら週に1日休みをもらって彼の経営している会社のサポートをしていました。しかし、彼のご家族の事業も支えていくことを視野に入れ、兼業は難しいため会社を辞めることにしました。彼とは事業の見通しが立ち次第年内にも結婚の予定です。

──おめでとうございます! お仕事を手伝うようになった理由や婚約するまでの経緯を教えてください。

 彼も元スノーボード選手で、同じ雪山で働きながら練習した仲間です。携帯電話がない時代だったので、山を降りて からは一度も連絡を取ることができませんでした。それが、20年経って共通の友人の結婚式で偶然再会することができました。彼は競技引退後に家業の食品卸会社を継いでいるのですが、10年ほど前にお父様が亡くなられてからは、経営には苦労されているようでした。経理を外注していたはずの会社に都合よく操られてしまい、給料も支払われず交通費にも事欠くような状態でした。私は転職して1年目の、U.S.CPA4科目の試験を1週間後に控えている時。仕事に自信もついていましたし、試験が合格した暁には、困っているスノーボード仲間の事業を助けたいと思っていたので、ボランティアで応援しようと立候補しました。そうしているうちに、プライベートでもお付き合いが始まりました。

──前の仕事でもそうですが、「困っている人を見過ごせない」「自分の強みを活かして助けたい」という森さんらしいエピソードですね。

 U.S.CPAに合格するまでの4年間、ほとんど友人にも会わず、仕事もうまくいかず、苦しい時期を過ごしました。それでも、いいポジションを得ることができた。だからこそ、次は困っている人を助けて恩返しがしたいと思いました。スノーボードでずっと食べていける選手はごくわずかしかいません。ほとんどの人が引退後は競技を離れて生活しています。家の仕事を継いだり、自分で事業を興したりする人もいますが、社会人としての経験や専門知識が少ないため、壁にぶち当たることが多いように思います。そんな人たちの力になることが、私にできることだと思いました。

──大企業への転職に成功し、昇進も見込まれていたという安定した環境を手放すことに迷いはなかったのですか。

 私の代わりに会社の仕事ができる人はいくらでもいますが、彼とその家族を助けられるのは私しかいません。じっくり考えましたが「これが一番私のやりたいことだ」と胸を張って言えます。以前は考えられなかったのですが、今の自分であれば新たに転職することも、事業を興すこともできると思っています。U.S.CPAのおかげで、自分の将来に自信が持てました。
 でも実は、私の母には少し反対されています。せっかく努力して安定した仕事を手に入れたのに、不安定な環境にわざわざ入って苦労してほしくない、と。心配な気持ちはよくわかります。私の父と彼の環境が似ているので心配しているんです。お父様の事業を2代目として受け継いで、経営がうまく回らなくなってしまったところが。大きく違うのは、彼のお母様しかり、彼は身近に助けてくれる人がいるところ。私の父も、数字がわかる人が近くにいたら、あそこまで大変なことにはならなかったと思うんです。ですから、家族で協力して事業をやっていくことは私の絶対に叶えたい夢なんです。

──森さんがサポートするようになってから、彼の事業に変化はありましたか?

 経営は少しずつですが上向きになっています。昨年末は「会社を継いでこんなにいい数字が出たのは初めて」と喜んでいました。彼は営業、私は会計、とお互い得意分野に専念することで、効果が出るのだと思います。今後もしっかり軌道修正し、母を納得させられる数字が出たところで正式に一緒になる予定です。

食、教育、スポーツ選手の引退サポート。あらゆる方面で自分ができることをしていきたい

──この先、やってみたいと考えていることはありますか。

 彼が持っている「日本の農家さんたちに光を当て、食材をブランド化して世界に紹介していきたい」という夢を一緒に実現していきたいと思います。オリンピックで日本を代表する経験をしましたので、食という新しい分野でも同じく日本を世界にアピールしていくことができたら本当に嬉しいです。また、彼のお母様は保育園の経営をしているのですが、年齢的なこともあり彼に代替わりすることを望んでいます。承継がスムーズにいくよう私も考えていかなければなりません。保育園経営に携わるのであれば、英語の能力を活かし海外の教育を取り入れてみたいという考えもあります。
 私個人としてやってみたいことは、スポーツ選手の引退のサポートです。オリンピックでメダルをいくつも取るような有名選手でない限り、引退する時は孤独です。私も、オリンピック出場が決まった時は壮行会をしてもらったり、お祝いをいただいたり、華々しいものでした。ところが、引退すると拍子抜けするくらい何もないんです。せっかくがんばってきたのに、最後に 悲しい思いをする人をこれ以上増やしたくない。だから、選手の引退式のプロデュースや、必要であればセカンドキャリア形成のコンサルティングもしていきたいですね。現役選手に関しては、冬季平昌オリンピックでスノーボード日本代表に選ばれた國武大晃選手の壮行会で司会進行を任せていただくことができましたし、今回スノーボードハーフパイプで銀メダルをとられた平野歩夢選手に関して、お昼のテレビ番組でコメンテーターも務めさせていただきました。今後は、スポーツ業界をいろいろなかたちでバックアップしていきたいと考えています。

──『TACNEWS』を読んでいる、資格取得をめざして勉強中の方やこれからスキルアップを考えている方に、メッセージをお願いいたします。

 『TACNEWS』は私も受験時代によく読んでいました。立派な方ばかり出てくるので「すごい」と思いつつ、「私でもわかる話をしている人はいないかな」と探したりしていました(笑)。だから、私のように勉強は苦手だけれども、どうにかして自分を変えたいと思う人を特に応援しています。「この人でもできたんだ。それならやってみよう」と思ってもらえたらうれしいですね。


[TACNEWS 2018年5月号|特集]

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