特集
司法書士のオンとオフ
~ライフワークで広がるコミュニティ~
成功とは、好きなことを、好きな時に、好きなだけできること。
司法書士として開業したことでお金ではない成功を手に入れました。
槙尾 三也子氏
司法書士槙尾三也子事務所
代表 司法書士
槙尾 三也子(まきお みやこ)
1971年生まれ、神奈川県川崎市出身。大妻女子大学文学部日本文学科卒。卒業後、インテリア商社に約5年間勤務し、退職後、司法書士をめざす。2001年、司法書士である父が他界。2003年、司法書士試験に合格、同年11月に登録。2004年1月、司法書士槙尾三也子事務所開業。
女子大学の文学部を卒業し、一般企業に就職。「会社員→寿退社→専業主婦」という人生のレールを考えていた槙尾三也子さんは、ある日「これでいいのだろうか」と、ふと自分の成長に疑問を抱きました。資格試験へのチャレンジはそこから始まります。漢字検定2級、当時の宅地建物取引主任者試験に合格し、次に挑戦したのは司法書士でした。合格後にすぐ独立開業して今年で14年目。7年前から始めた趣味のマラソンは、現在、年7~8回はフルマラソンレースに出場するほどの入れ込みようです。
オンもオフも充実している槙尾さんが資格取得で得たものとは、何だったのでしょう。女性として、司法書士として、ランナーとして。輝き続ける槙尾さんの世界を追ってみました。
2代目司法書士の誕生
──槙尾先生はどのような学生時代を過ごされましたか。
槙尾 三人姉妹の末っ子として生まれ、小学校時代は放課後はいつも男の子に混じって野球をしているような活発な性格でした。中学は地元を離れて横浜国立大学附属横浜中学校に進学し、自由な校風の中で学生生活を謳歌していました。大妻女子高校から大妻女子大学へと進学し、大学では日本語の美しさをより深く学びたいと思い、文学部日本文学科を専攻しました。
振り返ってみると、小学校、中学校、高校、大学と、法律にはまったく関係ない世界で暮らしていました。将来なりたい職業も特になかったので、普通に会社員になって寿退社して、主婦になることしか考えていませんでした。
──就職先はどのようにして選びましたか。
槙尾 その当時、間取り図を見るのが好きで、家に関することに興味を持っていたので、不動産業、インテリア商社、あるいは住宅メーカーに就職したいと考えていました。結果、第一志望のインテリア商社に入社し、営業事務に従事しました。ただ自分は建築関係や設計に興味があったので、2年間は仕事をしながら製図学校へ通い、CADの勉強をしていました。結婚して寿退社することしか考えていなかったので、「図面の作成を受注できたら、家でも仕事ができる」と思ったのです。でも、設計をやっていくうちに、自分にはセンスがないなと感じてやめてしまいました。
──インテリア商社からどのようにして司法書士をめざすようになったのですか。
槙尾 その会社は、ただただ楽しくて気楽だったので、5年3ヵ月も過ごしてしまいました。その後、退社して家事手伝いをしていると今度は毎日が暇で暇で、何でもいいので成長を感じられることがしたいと思い、漢字検定2級を受験してみました。それに合格したので、気をよくして「人間やればできるんだ」と思い、今度は宅地建物取引主任者(現:宅地建物取引士。以下、宅建士)に挑戦。こちらも半年間の独学で勉強して合格したので、次は司法書士にチャレンジしようと思ったのです。
──数ある資格の中で、なぜ司法書士をめざすことにしたのですか。
槙尾 実は父親は司法書士事務所を営んでいました。ですが娘の誰かに継いで欲しいとは一言も言いませんでした。父の仕事が司法書士だというのは知っていましたが、実際どのような仕事をするのか、まったく知らなかったのです。
それでも「何も知らない資格よりは父の職業である司法書士がいい」と思ったので、宅建士受験のあと、29歳の時に3年間だけがんばってみるという期間を作り、司法書士への挑戦を始めました。
──その時、お父様から何かアドバイスはありましたか。
槙尾 一切ありませんでした。寡黙な父は仕事のことは一切話しませんでしたし、私が司法書士をめざして勉強すると伝えた時も、「がんばりなさい」だけでした。
3年やってダメならあきらめる
──司法書士にチャレンジする際、法律の知識はありましたか。
槙尾 法律にはそれまでまったく触れたことがなかったので、むしろ宅建士の勉強が難しかったですね。法律用語からすべてが初めてで、民法と不動産登記法だけでしたが、独学で大変苦労した記憶があります。
ただ、宅建士は暗記で何とかクリアできましたが、司法書士は暗記ではダメなんだということは、勉強を始めてすぐにわかりました。
──司法書士はどのようなスタイルで勉強したのですか。
槙尾 独学では無理なので、最初から受験指導校に申し込みました。始めてみると、覚えることがたくさんあるのがわかり、ちょっと甘く見ていた自分を後悔しました(笑)。15ヵ月講座を受講したので15ヵ月間勉強したら合格できると思いこんでひたすら勉強したのですが、1年経った4月の時点であと5科目も覚える科目があると知って、がく然としました。メインの科目は1年間ずっと勉強するのですが、そこから残り3ヵ月でさらに5科目もこなさなければならない。そう考えただけで「もうダメだ」と思い、1年目は記念受験になりました。
──合格までの経緯を教えてください。
槙尾 2回目も3回目の勉強量に比べたらまだまだ少なかったと思います。2年経ってようやく勉強方法がわかり、それまでのやり方ではダメなんだと知って、そこから1年でやっと合格しました。3年目は、4回目の受験は絶対にないと決めて「もうこれで終わりにしよう」と思っていたので、本試験が終わったその日に教材から何からすべて捨てました。手元に残っていたらまた勉強をしてしまうので、「もう終わり!」にしたのです。
仮に3回目で不合格でも、全力を出してダメなことは自分の能力が足りないのだから何回受けても、一生無理です。自分のキャパを超えているのですから不可能だと思いました。3年目はそこまで勉強したので、何の悔いもなく教材をすべて捨てられたんです。
──背水の陣で挑んだ3回目の試験の手応えはいかがでしたか。
槙尾 本試験を受けた段階ではある程度の手応えはありました。でも答え合わせはしませんでした。合格するか不合格かしかないので、自分が何点であるかなど知っても仕方ないし、点数照会もしませんでした。
合格発表は横浜法務局本庁に貼り出された掲示板を見に行きました。そこに自分の番号があったのを見つけた時は、やはり心の底から嬉しかったですね。
不動産登記メインで事業承継
──合格された時、お父様はどのような反応でしたか。
槙尾 実は父は受験1年目の時に亡くなってしまいました。合格したのは亡くなった2年後の2003年でした。その間、父の事務所は別の先生にお願いして、看板を掛け替え、仕事とお客様を引き継いでもらうかたちで、何とか続けていました。
父は私に何も言わないけれど期待はあったと思います。でも、父が亡くなってからの親戚の期待はそれ以上に大きかった。亡くなって「事務所をどうするか」を決める際、とりあえず別の先生にお願いしたとしても1年ほどのうちに私が試験に合格しなければ閉鎖と決まってからは、母や周囲の期待によるプレッシャーはものすごく大きくなりました。合格まで事務所を引き継いでくれた先生からも「試験に合格したらすぐに継いでもらう」と言われていたので、2003年に合格してすぐに登録して、翌年1月には事務所を開きました。そうせざるを得なかったのです。
もちろん実務経験もゼロで、何もわからない状態でした。2代目でありながら、ゼロからのスタートです。それまでは電話番程度で、申請書の記載などは一切したことがありませんでした。実務は、登録して事務所を開いてから、すぐにソフトウェアを導入し、書式などもすべてソフトウェアを使いながら、父の代から補助者としてついていた母から実務的なことを教わっていきました。今考えれば、よくやったなと思いますね(笑)。
──開業当時からの事務所の業務内容について教えてください。
槙尾 不動産登記がメインで、それは今も変わりません。不動産登記と商業登記が6:4の割合です。顧問先は父の代からお付き合いのある税理士の先生を引き継ぎました。不動産登記については、父が金融機関系の業務が多く、亡くなったと同時に仕事はなくなったので、すべて私が開拓しました。
まず、駅前にはたくさん不動産業者があるので、手当たり次第、飛び込み営業に行きました。その中で、最初に伺った会社の社長がとてもよい方で、「営業は2回来てなんぼだ。飛び込み1回で仕事が取れると思うなよ。もう1回来なさい」とおっしゃってくれたので、再度伺いました。その時社長はいらっしゃらなかったのですが、従業員の方に「社長から2回来たら仕事を出すよと言われたので来ました。仕事をください」とお話ししたら、「社長がそう言ったなら出してあげるよ」と、仕事をくださったのです。
恵まれていましたね。ひとつわかったのは司法書士という資格プラス女性といえば、どこへ行っても邪険にはされないということ。女性であることにお得を感じました(笑)。
やりがいは、人のために役に立つこと
──槙尾先生は会社員→寿退社→専業主婦というライフプランを持っていました。そこから資格取得をめざし、司法書士として独立開業に一気に方向性が変わっていきました。司法書士として活動する現在の自分をどう思われますか。
槙尾 外に出て働くつもりはなかったので、まったくの計画外ではありました。一方で、よく考えればやはり自分の適性は家にいるタイプではなかったということです。
思い描いていたライフプランは、結婚して専業主婦までしかイメージがありませんでした。その先をどうしていくかが、勉強につながったということですね。
──もし仮にお父様が亡くなられなかったら、いかがでしたか。
槙尾 司法書士にはなっていたと思いますが、独立開業はしていなかったでしょうね。どこかの司法書士法人に勤めていたでしょう。ある意味、独立せざるを得なかったので、その段階で修業して実務経験を積むという選択肢が断たれたのです。
でも、今振り返ると、その時独立してよかったと思います。今年ですでに14年目。結構な年数を重ねてきました。自分自身、司法書士のような一生働ける仕事に就くとは思っていなかったので、こんなに長い間やってこられるとは想像だにしていませんでした。
──お父様の事務所を引き継がれて、今、司法書士としてのおもしろさややりがいはどのあたりに感じていますか。
槙尾 人のために役に立てるという実感があるのはすごく大きなやりがいですね。身近な友人から父親が倒れたと、私のところにすぐ連絡が入ったことがありました。私が司法書士だからサポートを求めてくれたんですね。資格がなかったら、確かに相談には乗れるかもしれませんが、それ以上のお手伝いはできなかったでしょう。知識的にも立場的にも、司法書士でよかったと強く思いました。
フルマラソンもウルトラマラソンも走るランナー
──仕事とプライベートの両立はできていますか。
槙尾 ある程度自分で仕事の調整ができるので、プライベートを確保するためにこの仕事をしていてよかったと思うほど充実しています。普通の会社員では、難しかったでしょう。
──ブログを拝見すると、趣味はランニングということですが、いつ頃から走り始めたのですか。
槙尾 7年前からです。2010年の東京マラソン10km部門に出場したのがきっかけでした。もともとスカッシュをやっていたので、スカッシュのための基礎体力作りとして走り始めたら、そちらに傾倒してしまいました。両立しようと思うとぶれてしまうので、3年前からはスカッシュをやめてマラソン一本にしています。
──スカッシュはいつから始められたのですか。
槙尾 スカッシュは30歳を過ぎてから誘われて始めました。競技人口が少ないので、その歳から始めて全日本に出場できる可能性があると言われたのです(笑)。しかも公式戦に1回勝てば全日本のランキングがもらえるというので、すぐにラケットを購入し、全日本チャンピオンのスクールに通って真剣にやっていました。ところが、公式戦どころか1回勝つこともものすごく大変だとわかったのです。全日本どころか7~8年やってもそこまでいかなかった。やはり相手のあるスポーツは難しいですね。
その頃東京マラソンをきっかけにマラソンを始めて、そこからレースに出るようになって、3年前からはマラソン一本にしました。東京マラソンは2010年は10kmでしたが、翌年も当選してフルマラソンを完走しました。
タイムを狙うつもりはなかったのですが、レースに出て走ったあとの達成感がものすごくよかったんですね。そこからはもう数えられないほどのレースに出るようになりました。
今では100kmのウルトラマラソンにも出ています。5年前から年に一度出場して今年で5回完走しています。昨年は71kmと100kmのレースに2回出ました。
実は今フルマラソンでタイムを狙っています。100kmを走ると後々ダメージが出て次のフルマラソンのタイムが難しくなるので、100kmは年1回までにしています。
──フルマラソンには年何回出られて、どのぐらいのタイムで走られるのですか。
槙尾 11月から4月の半年間に8回ほど出ているので、ここ3~4年は月一回強ぐらいです。出たいレースにエントリーしているとそんなペースになってしまいますね。
実は大阪国際女子マラソンに出たいと考えていて、その出場要件がフルマラソンのタイム3時間10分以内という制限なんです。今3時間16分なのでまだまだ遠いのですが、この目標も司法書士試験と同じように3年間だけがんばってみようと思っています。やはり自分の中に3年間という期限のルールがあるんですね。もしそれがダメだったらあきらめます。
──日々の生活はマラソンの練習メインになりそうですね。
槙尾 まさにその通りで、ほぼ毎日走っています。朝は5時に起きて7時まで約12km走って、食事して出社。17~18時まで仕事をして、夜練習があれば16時半に仕事を終えてトラックで練習したり、個人で練習します。月間でトータル約300kmは走っていますね。
とにかく今は3年がかりで大阪国際女子マラソンに出ることが目標です。この3年間はマラソンだけに集中していきます。
──そうした生活は一緒に生活している人にも影響すると思うのですが。
槙尾 パートナーも同じランナーなので、朝は一緒に起きて走っています。といってもパートナーのほうが断然早いので、走るのは別々です。生活のリズムが一緒なので理想的ですね。というより、食生活面でもいろいろと気をつけているので、今の生活はランナーでなければ一緒に過ごすのは無理でしょう。糖質制限をしたり、レースが近くなると体重をぐっと落として炭水化物だけ摂取して炭水化物を溜めたり、普段からご飯は食べないようにしたり、サラダだけあるいは肉だけにしたり、プロテインを飲んだり…。食生活もいろいろと制限しているので、時間的にも食生活面でもランナーでなければ共有は難しいと思います。
──ケガはないのですか。
槙尾 私は今までにケガをしたことがないんです。だから走れるのだと思います。祖母は104歳ですが、まだ元気で普通に歩いて自立してひとりで生活しているので、頑丈なのは遺伝だと思っています。
──目標の大阪国際女子マラソンに出られたら、その先はどうされますか。
槙尾 やはり50歳を迎える頃になるとタイムも下がってきてしまうし、どうしても体力の維持は難しいと思うので、大阪国際女子マラソンに一生に一度でも出られたら、そのあとはファンランナーとしてランニングを楽しんで続けていければいいですね。ウルトラマラソンは平均年齢が高いので、続けていけると思いますし、トレイルランのような楽しい方向もありますから、ずっと走る生活は続けていきたいです。
──入賞や優勝したことはありますか。
槙尾 入賞はハーフでも10kmでも何度かありますし、ハーフでは2回優勝しています。1回目は四国の大会で、2回目は2017年4月に開催された「あだち五色桜マラソン」で、この時はスポーツ新聞に載りました。出場する時は、常に入賞あるいは優勝を狙っています。
──全国の大会に出ているのですか。
槙尾 出ていますね。ただ休みは取れないので、別府大分マラソンの時だけは月曜日にお休みさせてもらいますが、それ以外は土日に走っても必ず帰って月曜からは仕事しています。100Km走った日も次の日の朝から仕事です。そこはきちんとけじめをつけています。
マラソンはコミュニケーションツール
──独立したことで時間が自由になって融通しやすいということですが、逆に仕事にとってプライベートがプラスになることはありますか。
槙尾 ランニングをする士業の先生とは仲良くなりますね。走る士業の先生たちのコミュニティがあって、ブログを通じてマラソンをしている士業の先生から仕事をいただくこともあるので、マラソンがコミュニケーションツールになっています。中でも私のようにウルトラマラソンまで走っている人は珍しいので「おもしろい司法書士がいるぞ」という触れ込みで気にしてくれる人はいます。普通の司法書士プラスアルファでマラソンがあれば、注目してもらえて、立ち話にも困ることはありません。
──そういう意味では、走ることが営業になっていますね。
槙尾 本当にそうですね。士業の先生で走っている方は相当数います。しかも、どんなに活躍している弁護士先生でも、ほぼ私のほうがタイムが速いので、ダメ出ししたり、練習内容などを指導することもあります。すると仕事の壁がなくなってフラットになるので、腹を割って話せるところはありますね。
そういう意味で、私はマラソンをしていてとてもよかったと思っています。もし走っていなければ、仕事のメリハリもまったくなかったでしょう。マラソンはそれなりにお金も時間もかかるのできちんと仕事もしなければいけないと思うし、時間も限られた中でやらなければなりません。その辺のメリハリがつけられることも、マラソンをやっていてよかったと感じる点です。
──今後、事務所ではどのような展開を考えていますか。
槙尾 仕事とプライベートのバランスが今すごくよいので、今のままいければいいなと思っています。今以上受託するともっと人を雇うことになってしまうので、補助者と私ひとりで過不足なくできているのは理想的です。
不動産登記が減っていると言われますが、仕事がなくなる危機感はまったくありません。もしなくなったら、また営業をかければいいと楽観的に考えています。いろいろな意味で自信はあります。というのは、開業してから仕事がなくて困ったり、赤字を出したことが一度もないからです。順調にきているので危機感がないのかもしれません。
──仕事上、心がけていることを教えてください。
槙尾 私の事務所では、一度受託したことのある方からの口コミによる紹介がものすごく多いんです。今でもお客様の口コミでもっているので、やはり一人ひとりのお客様を大切にしていけばそれが宣伝になっていくと信じています。そうした意味では、14年経った今でもまだ種まきをしていると思っています。だからこそ将来に対して不安がないとも言えますね。
「お金ではない成功」を手に
──現在の事務所の様子を、お母様はどのように見ていらっしゃいますか。
槙尾 今の仕事のスタイルを見て、一番喜んでいるのは母だと思います。母は今でも週に一度は事務所で経理をしてくれています。もう80歳なので、母の安心のためにも「槙尾の屋号をもう一度戻した」ことは、とても大きな親孝行になったと思っています。母の目の黒いうちは、絶対に事務所をたたむことはしてはいけないし、司法書士になったのも母のためだったと断言できますね。
──法学を学んでいない文学部出身の先生が、法律系資格をめざすのは難しくはなかったですか。
槙尾 法学系の人は法曹にいってしまうので、私が合格した時の司法書士同期は経済学部や商学部の人ばかりで、法学部の人はひとりしかいませんでした。しかも仲間内で一番短期合格を果たしたのは専門学校卒生でした。ですから、法学系ではないからといって臆することはまったくありません。むしろ司法書士は、学部に捉われないで挑める資格だと思います。
また司法書士の特徴として新卒が少ない傾向があるので、ある程度社会経験を積んでから取得しても遅くはない資格ではないかと思っています。社会経験は仕事に必ず活きてくるものです。新卒で「先生、先生」と言われるより、一度社会に出て、ある程度キャリアを積んできた人のほうが、相談するお客様も安心です。40歳、50歳でも若手と呼ばれる世界なので、第二の人生として歩んでもいいのではないでしょうか。
──資格取得をめざしている読者に、アドバイスをお願いします。
槙尾 成功とは何か。地位や名誉やお金ではありません。私の考える成功は、「好きなことを、好きな時に、好きなだけできること」です。好きなだけという面ではお金も時間も足りなかったりするのですが、好きなことを好きなだけできるのは、この職業でなかったらできなかったと思っています。そんな「お金ではない成功」を手にするためのスキルを身につけたらいいのではないか。そういう意味で、私はこんな小さな事務所でも自分では成功したと思っています。
資格を取ることで生き方の選択肢が増えるのはすごく大きな価値があると思います。同期の女性には、資格を取って子育てに入り、復帰して活躍している人がたくさんいます。開業であれ、就職であれ、「とりあえず取っておく」のは生き方として絶対にお勧めですね。