LET'S GO TO THE NEXT STAGE 資格で開いた「未来」への扉 #24
菅原 伸也(すがわら のぶや)氏
アクセス社会保険労務士事務所
行政書士菅原法務事務所 代表
社会保険労務士 行政書士
1986年生まれ。専修大学法学部在籍中に行政書士試験に合格。卒業後、「行政書士菅原法務事務所」開業。より幅広い相談案件に対応するため、2014年、社会保険労務士資格を取得し、2016年には「アクセス社会保険労務士事務所」開業。2020年現在、顧問先企業数180社、クライアント企業数600社に規模まで規模を広げている。
【菅原氏の経歴】
2004年 18歳 専修大学法学部に入学。
2006年 20歳 行政書士試験に合格。
2008年 22歳 大学卒業後は野球の実業団チームに入る予定も、卒業目前にチームが解散。在学中に得た資格を活かし、「行政書士菅原法務事務所」を開業。
2014年 28歳 より幅広い相談案件に対応するため、社会保険労務士の資格を取得。
2016年 30歳 「アクセス社会保険労務士事務所」を開業。
野球に挫折したとき生きる力を与えてくれたのが資格だった
人に感謝され、喜ばれる仕事をしながら
さらなる夢をもって進んでいける
人生にいくつかの挫折はつきものだ。
なりたいものになって、好きな人生を送れるというのは稀な話だろう。
それでも何かに精一杯、打ち込んだ努力は、たとえ挫折しても無駄にはならない。
野球人生に挫折しながらも、その人生を資格によってプラスに転じさせた社会保険労務士・行政書士の菅原氏に、これまでとこれからについて語っていただいた。
野球一家に生まれ、野球漬けの人生
小学校から大学まで野球漬けだった。祖父とその6人の兄弟、そして父も野球をやっていた。生まれたときから家にはグローブもボールもあり、小学校の夏休みには祖父たちとキャッチボールをするのが決まりだった。
ポジションはピッチャー。中学時代は周りと比べて身長も高く体格もよく、その重く鋭い速球を簡単に打ち返すバッターは多くはなかった。「自分はプロ野球の選手になる」。いつしかそう決めていた。高校への進学は、野球推薦で決まった。専大北上(専修大学付属北上高等学校)。岩手県の強豪校として、夏の甲子園大会に度々出場している硬式野球部がある高校で、親元を離れて野球をやることになった。
だが強豪校に集まった野球部部員たちのレベルは、これまでとは比べ物にならず、体格も負けていたため、遅れを感じて戸惑い、焦りを感じた。その焦りからか、肘を痛め、入学して半年でピッチャーとして活躍できなくなってしまった。練習も満足にできず、同級生たちとはどんどん差がつき、置いていかれる思いを味わった。半年で肘は完治したが、その後レギュラーになれることもなく、甲子園に行くこともできないまま、高校3年の夏が終わってしまった。
「勉強は苦手」その思いを担任の先生の言葉が変えた
そんなある日のこと。菅原氏がいつもつけていた野球のトレーニングノートを、担任の先生が目にした。そこに書かれていたのは、体格の差をどんなトレーニングでカバーすればいいか、どんな栄養素で補えばいいかについてのきめ細かなプラン。それから試合相手の弱点はどこかといった詳細なデータ分析。現状を正確に把握し、何をすべきかを考え、行動する。目標のために自分を律するという高い能力を、担任は菅原氏に感じた。「それだけ自分を管理できる能力があるなら、騙されたと思って少し勉強してみればいい。君なら大学受験も戦えるはず」。担任はそう助言した。
勉強には苦手意識があったし、もう高校3年の夏。迷いもあったが、担任の言葉に心を動かされ、受験勉強を始めた。数学はダメだったが、暗記が得意で日本史や国語、英語の成績はよかった。この3科目で受験できる大学に行こう。狙うは法学部。法学部出身で、自身の働く会社で法律に関わる部署で働いていた父の「社会に出たとき、法律を知っていて損なことはない」という言葉を参考にした。
そして専修大学法学部に合格。大学生活がスタートする。
「これまで野球しかやってこなかったので、別の何かをやってみたいと思いました。具体的な目標はないままでしたが、法律のほかに英会話や教職課程などの授業にも出てみたり、いろんなサークルに顔を出したりしました」
それでも、菅原氏が選んだのは野球サークルだった。
「法律だけはスタートラインが同じ」
野球サークルにはたまたま法学部の先輩が多く、勉強の相談や将来の相談ができた。実は菅原氏にはその頃、大きな悩みがあった。勉強に本腰を入れたのが高校3年の夏。それゆえ自分の学びには「深みがない」と感じていたのだ。英語の授業や教職課程のディスカッションの場などで、それは強く感じられた。周りとの差が激しく、ついていけない。そんなときに先輩からの助言があった。
「法律の勉強は誰もが大学へ入ってから始める。スタートラインは一緒だから、そんなに差は出ないはず。司法試験の対策講座へ出てみたらどうだ」
司法試験ということは、弁護士をめざすということか。そんなことが自分にできるのだろうか。
「不安でしたが、勉強を進めてみたら、暗記が得意だったので六法全書もスムーズに頭に入りましたし、大学のテストでも上位に入るようになりました。確かに法律の勉強ならスタートラインはみな一緒。同じペースで進められるということを実感しました。そのことは僕の心の支えになり、がんばる力になりました」
司法試験対策講座に出るようになって1年後、講座の先生は言った。「弁護士を本気でめざしてもいいのでは」。菅原氏は覚悟を決めた。
ところが、ここでまた大きな転機が訪れる。大学2年の夏、野球サークルの大会で菅原氏はピッチャーとしてマウンドに立っていた。大学のサークル活動の草野球。正直、レベルが高いとは言えない。その中で菅原氏はひとり、たまたま試合を見に来ていた実業団チーム関係者の目を引く存在だった。関係者は菅原氏に声をかけ、入団テストを受けるよう促した。そのチームは翌年から創設される予定のもので、監督やコーチは元プロ野球の選手を招聘して立ち上げるという力の入りようだった。
また野球ができる。しかし、司法試験を受けるためには2年生の秋から、ロースクール(法科大学院)へ進むための勉強を始めなければならない。実業団チームをめざして本格的に野球をやっていたら、ロースクールには進めない。だが、不完全燃焼に終わった野球にも、もう一度チャレンジしたい。菅原氏は人生の大きな岐路に立った。
野球か、弁護士か
菅原氏は父親に相談した。父は「やりたいことをやればいいのではないか」と言い、同時にこんな提案もした。「せっかくここまで法律の勉強をしてきたのだから、何か資格を取ってみてはどうだ。野球がダメになったときの保険にもなるだろう」。そして父は自分が過去に行政書士の資格を取ろうとしていたことを話した。菅原氏は弁護士以外にも法律に関する資格があることを知り、決意した。「行政書士試験が3ヵ月後にある。これに合格したら、実業団チームで野球をやろう。もしダメだったら、野球はあきらめてロースクールへ進もう」と。そして猛勉強の末、行政書士試験に合格。野球をやる以外は、ほとんど法律の勉強をしていた。大学の図書館で夜の9~10時まで。それが成果につながった。
行政書士試験に合格した菅原氏は、心に決めていた通り実業団チームに入り野球をすることに。入団テストにも無事に合格。残りの大学生活は、野球に打ち込んだ。大学3年からは実業団チームに参加し、卒業後はそのまま、その実業団を運営する企業への就職が決まった。
ところが大学4年の2月、あと1ヵ月で卒業というタイミングで、突然の知らせがあった。その日は実業団チームの試合の日。試合前のミーティングで球団の関係者がベンチ前に並び、関係者のひとりが事務的な口調で言った。
「本年度いっぱいで、我々のチームは解散することが決まりました」
突然失われた将来
そのとき資格が浮かび上がる
原因は、運営する企業の業績低迷。そのため就職の内定についても取り消すという。東京でひとり暮らしだった菅原氏は、卒業後の生活を考えなければならなくなった。ほかの実業団チームを探そうとしたが、すでにどこも入団テストは終わっている。そのとき、失意の菅原氏の頭には「野球がダメだったときの保険」として父の助言で取得した、行政書士資格のことが浮かんだ。
「資格を活かすしかないと思いました。でも当時は行政書士の具体的な仕事内容については何もわからず、ただ資格を持っているだけ。そんな状態で卒業を迎えたので、まずは当面の生活のためにアルバイトを始めました。同時に、自宅を事務所にして行政書士の登録を済ませ、インターネットで行政書士の営業方法を調べて実践しました」
その中で、仕事を獲得するためには人脈を広げる必要があると知った。調べると、異業種交流会や士業の交流会、各種の勉強会、セミナーなどが、比較的金額も安く、毎日実施されているようだった。そこに参加し、行政書士や司法書士、社会保険労務士として働いている方々と話すことで、行政書士の仕事について理解していったという菅原氏。アルバイト代から生活費だけを残し、あとはすべて参加費用にあてた。当時、菅原氏は23歳。参加者の中では一番年下だった。交流する人の中には、個別に時間をとって仕事のことを教えてくれる人たちもいた。1日に3~4件の交流会に参加し、何千という人々と名刺交換。生活を支えるため、引っ越し業や国の法律事務のアルバイトをしながら、それ以外の時間はすべて、歯を食いしばって交流会へ参加した。野球で鍛えたタフな心身が、その努力を支えた。
そんな活動を始めて半年後、30分5,000円の相談業務が入ってくるようになった。また、交流会で知り合った税理士や司法書士などの先輩から、横のつながりで仕事がもらえるようになってきた。菅原氏は、その一つひとつの仕事にできる限り丁寧に対応し、信頼獲得につなげた。次々に仕事をもらえるようになり、開業から1年半後には、行政書士の仕事だけで生活ができるようになった。
さらなる相談に応えるために
社会保険労務士の資格を取得
行政書士として、会社設立や、飲食業、不動産業、建設業などの許認可に携わるようになった菅原氏。その後人を雇い始めるようになった企業が「人」に関する悩みを多く抱えていることを知ると、人材育成こそがこれからの時代のカギになると考えるようになった。「行政書士だけでなく、社会保険労務士の範疇の相談にも応えていかなければ」。そして再び資格の取得を決意する。
「行政書士試験の勉強をしていた頃はプレッシャーもなく、比較的自由な時間で勉強ができました。しかし社会保険労務士の資格は、困っている人が待っている、だから絶対に取得しなくてはというプレッシャーがありました。しかも当時はアルバイト2名と私の3名体制で事務所を運営していて、土日も休めないくらいの多忙ぶり。そのため、朝7時前からの2時間を勉強の時間と決めました。一度決めたら実行しないと気が済まないタイプなので、前日の接待で夜中の1時に帰宅した日でも、絶対に勉強を休みませんでした」
その努力が実り、2014年に社会保険労務士試験に合格。幅広い相談案件に対応できるようになった。2016年には「アクセス社会保険労務士事務所」を開業する。
社会保険労務士の重要な仕事のひとつに、企業の給与設計がある。給与設計がうまくいけば会社の財務状況を改善することができるため、会社の経営の中でも重要な部分だ。菅原氏の設計した給与体系はいくつかの会社の財務状況を改善した。これを税理士が評価しパートナーとなり、今では30ほどの税理士事務所とつながり、紹介業が数多く舞い込んでいるという。
「ほかにも弁護士や司法書士のネットワークもできて、そうした人たちからも紹介される仕事が増えています。今はもう交流会に参加することはなく、紹介だけですべてが成り立っています」
現在のクライアント数は、実に600を超えるという。
感謝されながら励める仕事
「23歳の駆け出しの頃に設立手続きを手伝った会社がいくつかあります。最初は社長ひとりで立ち上げた会社が、その後成長して従業員40~50人の会社になっている。そんな会社の社長と、これまでの苦労を語りながら、20年後、30年後の夢を話したりすることがあります。一緒に会社を作って育てている感覚があって、とても楽しいですね。また社会保険労務士は、社長や役員だけでなく従業員と交流することもあります。結婚したとか、子どもが生まれたとかで社員の皆さんからさまざまな相談を受けるのは、皆さんの生活に関わっている実感があってとてもやりがいを感じますね」
数々の充実感を得ながら仕事に励む菅原氏。これからの展望はどんなことだろうか。
「もっと多くの要望に応えられたらいいなと思うことがあります。将来的には税理士や弁護士、司法書士も雇って、さまざまなことをうちの事務所でできるようにしていきたいです。
そして実はもう一度、司法試験にチャレンジしてみたいと思っています。これまでは仕事が大変でしたが、今は正社員5名、アルバイト2名の体制になり、仕事を任せられるようになってきたのです。また妻が教育熱心で娘に幼稚園受験をさせようと考えているので、私も娘と一緒に勉強しようかなと思っています」
最後に菅原氏にとって、資格とは何かを聞いてみた。
「日本という国のシステムの中で、国家資格を持って仕事ができるのは有利にはたらくと思います。コロナ禍においても、事務所の売上は下がりませんでした。そして、困っている企業を手助けできています。行政書士、社会保険労務士という資格に、人生を支えてもらっていますし、これらの資格のおかげで、夢を持つことができているのです」
[『TACNEWS』 2020年9月号|連載|資格で開いた「未来への扉」]