日本のプロフェッショナル 日本の行政書士|2023年6月号

富澤 泰之(とみさわ やすゆき)氏
Profile

富澤 泰之氏

行政書士法人富澤事務所
代表行政書士

1975年11月1日、広島県生まれ。1歳前から神奈川県鎌倉市で育つ。1999年、駒澤大学経済学部卒業。新卒で商社に勤務。2003年、中国ハルビンに留学。2004年、帰国後、メーカー勤務。2005年、通訳案内士(中国語)取得。2013年、2回目で行政書士試験に合格。2014年、神奈川県海老名市内の自宅で開業。2015年、海老名市内に事務所を構えるとともに、行政書士法人富澤事務所として法人化を果たした。

「圧倒的なグローバル感」を誇る国際派行政書士事務所。
「自己流、新働き方改革」を実践しています。

 行政書士法人富澤事務所は、神奈川県海老名市にある開業10年目、総勢12名の行政書士法人である。国際業務がもっとも多く、中国語、英語、韓国語、スペイン語の4ヵ国語に、通訳を介さず対応できる圧倒的なグローバル感を誇る事務所だ。代表行政書士の富澤泰之氏は、中国語が堪能なだけではなく、話術も堪能なプロフェッショナル。そんな富澤氏の生い立ちから行政書士をめざした理由、そして開業からの足跡、今後の方向性までをご紹介したい。

「ハルビンの奇跡」

「小さい頃は本当に落ち着きがなくて、小学校の6年間通知表にはずっと『落ち着きがない』と書かれていました。親には勉強の成績より、まずその点でいつもガッカリさせていましたね。勉強の成績も運動神経も普通。野球が好きで、外でよく遊んでいるような本当に普通の子どもでした」

 高校で進路を考えるときは、「あわよくばいい大学に行けたら」「経済学部は何となく就職に有利そうだから」と駒澤大学経済学部に進学。若い頃の自分を振り返って、富澤氏はこう話す。
「一浪して駒澤大学経済学部に進学したあとも、何もかも普通でした。学業に本腰を入れないなら、アルバイトに没頭するとか、サークルに熱中するとか、何か1つでも集中して取り組んでいたらよかったのですが…。ダラダラと4年間を過ごしてしまったことは本当に後悔しています」

 折しも就職活動が始まる大学3年時は1997年。北海道拓殖銀行と山一證券の経営破綻で、日本が未曾有の金融危機に突入した年だ。就職氷河期のまっただ中で、当然、就職先を選べるような状況ではない。そもそも自分が何をしたいかも考えたことがなかった富澤氏は、「たまたま受かった」商社に入社を決めた。
「入社後は総務部人事課に配属されました。総務部は残業が少ないイメージがあったのでラッキーと思いましたね。ところが会社が合併を控えていて、珍しく総務部が忙しいタイミングだったんです。入社2日目から『今日の夜22時まで残業するか、明日の土曜日に出社するか選べ』と言われて、『イメージと違う!』と思いました(笑)。そこからずっと残業続きでしたね。何とかその時期を乗り越えて1年ほど経った頃、会社のお家騒動で営業担当者が不足してしまって、人員補充で営業部門に異動になったんです」

 新規開拓など一切ないルート営業。旧態依然とした業界体質で、本人の表現を借りれば「昭和の営業スタイル」だった。
「営業の仕事は本当にしんどかったですね。でも、やっているうちに感覚がマヒしてきて、大抵のことはつらいと感じなくなってきました。このときの経験は、今の仕事にもつながっています」

 営業2年目、「このまま普通で平凡な自分でいいのか」と自分のキャリアに疑問を抱くようになった。
「好きか嫌いかで言えば、営業の仕事は100%嫌いだしつまらない。でも、これまでただなんとなく仕事をこなしてきただけの自分には、秀でた能力や特別なスキルはありません。別の仕事をする選択権がないという現実を認識し、後悔の念に駆られました」

 26歳、人生で初めて感じた危機だった。「1~2年で何かの分野でトップレベルのスキルを身につけよう」と方法を模索した富澤氏。まだSNSのなかった時代、ホームページから情報を得て分析した結果、留学して1年半で一定レベルに到達できそうだったのが語学だった。中国語なら漢字が好きな自分に合っているし、当時の中国はまだ物価が安く、留学費用も欧米の1年ぶんで1年半~2年滞在できた。「これからは中国が来る」と言われていた時代背景も後押しとなり、中国への留学を決心。国家資格である「通訳案内士(中国語)」の取得を目標にした。

 こうして2003年、富澤氏は中国ハルビンに飛んだ。「留学中はたまに同級生とご飯を食べに行くくらいで、勉強ばかりしていました」と、当時を振り返る富澤氏。その甲斐あって、1年半後の2004年に帰国し受験した通訳案内士(中国語)に合格した。富澤氏はこの出来事を「ハルビンの奇跡」と呼んでいる。

 「中国語で仕事をしたい」。通訳案内士の合格通知前だったが、富澤氏はどのような形であっても語学を使った事業で独立したいと考えていた。といっても、語学ができるだけで、国際ビジネスの経験はない。そこで修業のために神奈川県のメーカーに入社した。

 「新卒で入った会社に比べれば仕事は楽で、本当に居心地がいい職場でした」と当時を振り返る。

 さしずめ過去の富澤氏であれば「こんなゆるくて楽な仕事はないな。ずっとここにいよう」と思っただろう。ところが一発逆転ホームランを狙っていた富澤氏は、「中国語を使いたくてこの会社に入ったのに、この環境では自分に身につくものがない。このままなら転職します」と上司に詰め寄った。そして購買部から社内ヘッドハンティングを受け、中国サプライヤー発掘プロジェクトのメンバーとなり、品質管理、納品管理、生産管理、研究など、いろいろな交渉をする立場になった。しかし、ようやく中国語の仕事に就けたと張り切っていたのも束の間、1年経った頃にその部署は解体になってしまった。そのとき富澤氏は「サラリーマンである限り、自分の人生を自分で決めることはできないんだ」と、独立への思いを強めた。そこからいよいよ行政書士をめざして、新たな人生の扉を開けることになる。

協調性と出世を捨てて、行政書士へ

 メーカー勤務8年目。海外ビジネスの経験や知識はついたし、中国語も仕事で使える自信がついた。「だけど独立には何か足りない」。富澤氏はそれが何かを模索した。
「通訳・翻訳の仕事に必要な知識を調べようと求人情報を見ていたら『IT、法律、特許』の記載が多かったんです。ただITは日進月歩で最新のトレンドについていくのが難しい。特許はまったくの専門外。それならばと、消去法で法律の知識を身につけることに決めました。しかしすでに30代も後半戦。さすがにそこから弁護士や司法書士をめざすのは厳しいと思っていたときに見つけたのが、どこかの宣伝文句で『半年で受かる!』と称されていた行政書士でした。行政書士がどんな仕事をするかはまったく知らず、『半年間で受かる法律系の国家資格』という点を魅力に感じて受験を決意しました」

 そうして通信制スクールで学び臨んだ1回目の本試験は、勉強不足で不合格だった。
「今ならそんな簡単に合格できるわけがないとわかりますが、当時は『話が違うぞ』と思いましたね(笑)。でもそのあと香港への海外出張中に急性扁桃炎にかかり、治ったと思いきや今度は慢性扁桃炎になってしまったのです。先生から摘出手術を勧められて、迷いましたが『その間会社を休めれば勉強できるぞ』と考えて、手術を決断しました」

 決めたら徹底的だ。手術のために2週間の傷病休暇を取って、会社に復帰してからも残業はせずに定時で帰った。電話には出ない、会議室にこもって作業するなど、周囲からは大ひんしゅくを買ったが、3人ぶんの業務量を1人でこなし、3倍の成果を出して周囲の雑音を黙らせた。
「協調性を捨てて、出世も捨てて。ただ、いただいている給料ぶんの仕事はきっちりこなしました。あえてそうすることで、もう会社には残れない状況に自分を追い込みました」

 退路を断って迎えた2回目の本試験で、富澤氏は行政書士試験に合格した。

私、「運」がいいんです。

 実は2回目の合格発表前の12月に、上司からメキシコへの転勤を打診されていたという。
「そのときは妻が妊娠中で、翌年3月に子どもが産まれる予定でした。海外転勤は会社員としては出世コースですが、行政書士への道は完全に遠ざかるし、妻にも負担をかけます。悩みましたが、こんなタイミングでの打診は、神様が『会社をやめて大丈夫だよ』と言ってくれているのかなと。そう考えて、転勤を断って退職することを決断しました。
 結局、夏のボーナス支給のタイミングまで会社に残してもらえて、法律と英語の職業訓練も受けられました。何だかんだいつも『運』がいいんですよね、私は(笑)」

 紆余曲折を経て2014年、神奈川県海老名市の自宅で行政書士富澤事務所を開業した。ところが、いざ開業となって「さて、行政書士とはどんな仕事をするんだろう?」と壁にぶつかる。
「何しろ、とにかく合格することだけしか考えていませんでしたから、知っていたのは『試験に合格したら法律の国家資格が手に入って、年収400~500万円にはなるだろう』『中国語のスキルをかけ合わせれば、差別化できるだろう』ということだけでした。何をするかなんて二の次でしたね」

 ビザ申請などの国際業務が、行政書士の業務範囲だということを知ったのも合格後。合格後すぐに独立できることも知らず、「合格したら、またどこかの事務所で修業をするのかな」と思っていたという。
「勤務経験もないし、書類作成の実務もまったくわからないし、お客様もゼロ。だけど私は『運』だけはいいんです。開業してどうやって仕事を取ろうかと考える前に、妻の友人のご主人が『会社を設立するからやってみないか』という話をくれました。『不慣れだから時間もかかるし、作業は遅いけど、安くやる』ということで引き受け、それが初仕事になりました。会社設立の手順はまったくわからないし、定款も作ったことはありません。でも調べながら進めて、何とかやり遂げたんです。それがとてもいい勉強になりました」

 初仕事を無事に終えた富澤氏は、次に地元で補助金申請の依頼を受け、初めて事業計画書を作成。そのあとには、行政書士業務の代表的な業務である建設業許可申請の依頼を受けた。

全部専門家級にきちんと知識があれば一番いい

「建設業許可申請は手引きを読んでもよくわからなくて。それなら窓口で確認したほうが早いと思い、自分なりに作った申請書類を手に、とある都道府県の申請窓口に行きました。当時は書類が正本・副本の2部必要なことも知らず、『あれ?副本は?』と窓口の方に聞かれて『副本って、何ですか?』と言ってしまう始末で…。『あなた、行政書士さんですよね?』と困らせてしまいました(笑)。そのうち、何を言われてもへこたれない私を見て『しょうがない。じゃあ教えてあげましょう』と、窓口の方が丁寧に教えてくださったんです。そうやって仕事を覚えていきました」

 中国語を使う仕事をメインに据えたかったが、開業した海老名市の中国人は限られている。母数が限られている以上、国際業務を専門とするのは厳しいと判断して、富澤氏は「何でもやります」という姿勢で仕事を始めた。その後は、各地の中華料理店で名刺を配るなど、地道な営業活動から徐々に仕事が入るように。そこから紹介の輪が広がり、やりたかった中国関連の国際業務も、開業1年目から入るようになった。今では国際業務が事務所の最も大きな柱となっている。
「業務比率は、ビザ・国際業務が40%、許認可案件が30%、あとは補助金・相続関係が30%。成年後見と交通事故案件以外はほとんどやっていますね。柱となる国際関係は、国別でいうと中国とスリランカで80%以上を占めています。海老名にはイスラム教のモスクがあるので、スリランカ人が多いんです。その影響で、出生届に英訳を付けてスリランカ大使館に提出する仕事が、紹介に次ぐ紹介で増えていきました。そこからビザ申請の仕事にもつながって、国際業務が広がりました。許認可案件では、建設業が最も多く、次いで産廃業や風俗営業系も扱っています」

 相続案件についても精力的に取り組んでいる。開業初期、地域貢献の一環で相続遺言の無料相談会を企画した富澤氏。運営のノウハウを習得すべく、神奈川県行政書士会が毎年横浜で開催している相談会にボランティアとして参加した。そこで学んだ相談会の運営ノウハウを活かし、海老名商工会議所主催の商工フェスタに自ら相談ブースを出店した。これまで海老名市にそのような相談会がなかったこともあり好評を博し、その後も毎月相談会を開催し続けた。そこから相続案件の受注も増え、希望通り幅広い行政書士業務を扱えるようになっていったのである。

 会社設立、補助金申請、建設業の許認可など、その都度勉強して覚えていった結果、すべての分野で一定の高いレベルに到達できたと、富澤氏は話す。「何でもやります」の姿勢は確固たるものになった。
「どんな分野も全部専門家級にきちんと知識があるのが一番いい。それができそうだと思ったので、特に専門を絞らず仕事を受けることにしました。依頼は、来るもの拒まず。やったことがなくても法的に受任して問題ない業務であれば、すべて受ける。それでひとつずつ覚えていく。がんばってきちんと結果を出せば、お客様は次のお客様を紹介してくれます。そういう良い流れができました」

「こういう働き方もできる」ことを世間に発信したい

 登録から3年足らずで法人化し、行政書士法人富澤事務所を設立した。現在総勢12名で、資格者は富澤氏を含めた2名、試験合格者が1名、日本人のほかに中国、韓国、スペイン語を話せるスタッフが在籍。語学に強い「圧倒的なグローバル感」が事務所の強みになっている。

 スタッフの採用は、開業1年半で現在の事務所に移転してからだ。採用にも、富澤氏の会社員時代の経験が活きている。
「会社員時代、社宅に住んでいたときに思ったのは、女性は出産にともない、働ける時間がどうしても限られてしまうということです。『9時から15時までは働けるけど、17時までは無理』となると、普通の会社では不採用になってしまうケースが多いでしょう。でもスキルと能力があるなら、そういった才能ある人たちの力も活かしたいと考えました。
 そこで、うちの事務所は思い切り融通をきかせて、『帰るのは何時でもOK、在宅でもいい』としました。フルタイムで働いてもらうことだけが良いわけではない。優秀な人材を活用することが重要なのです」

 裁量労働制にしているため、細かい時間管理もしていないという。
「成果さえ出してくれればいいので、細かい勤務時間は気にしません。例えば、普通の人が6時間かかる仕事を3時間で終わらせてくれれば、残りの3時間は遊んでもいい。その気があればもっと稼いでくれてもいいし、成果を出したぶんはボーナスで還元します」

 御殿場のアウトレットモールでのお買い物ツアーを企画し、会社から補助を出すなど、独創的かつ個性的な取り組みもしているようだ。

 また、採用活動では「この人と働きたいかどうか」の直感を大事にしている。一緒にいて気持ちがいい人であれば、資格の有無にも特にこだわらないという。

 事務所を柔軟な形態で運営しているだけではない。驚くのは富澤氏自身の仕事のスタイルだ。「今は月の3分の1は、神奈川県にいません」と断言する。
「書類作成の仕事なら私でなくてもできるので、ほとんどの申請は補助者に任せています。もちろん内容の確認はしていますが、基本的なお客様対応もやってもらうケースが多いです。また、私は面談が必要なとき以外、お客様と相対することはほとんどありません。その面談もオンラインで行うので、お客様と直接会う機会は少ないんです」

 富澤氏は「自己流、新働き方改革」としてワーケーションを実践している。
「実際に、先月は宮古島、その前は石垣島でサーフィンとゴルフ合宿をしてきました。行政書士は士業の中でも廃業率が高く、ネガティブなイメージが強い。それを払拭したいと思っています。自分なりの新しい働き方を実践することで、『行政書士はこういう働き方もできるんだぞ』ということを世間に発信していきたいです」

 事務所に来るのはテニス道具を取りに来る日ぐらい。人が少ない早朝か深夜に仕事をして、日中はテニス、ゴルフ、サーフィン。その合間に、昼間にしかできない面談などの仕事を入れる。
「今は週5日1時間ずつ、昼休みにテニスで汗を流しています。サーフィンとゴルフの合宿は月1〜2回行くのが目標です」

 オフの時間も充実させている柔軟な仕事ぶりだ。それでも、事務所は開業10年目で総勢12名。ゼロからのスタートで徐々に規模感の大きい法人に拡大している。成長し続ける秘訣は何だろうか。
「幸い仕事がなくて困ったこともなく、ここまでやって来ました。やはり『運』がよかったのだと思います(笑)。ただ好不調の波はあって、例えば月初が不調でも月末にボンと依頼が来たり、逆に調子が良くても月末に急ブレーキがかかったり。最後までずっと調子が良い月もあります。行政書士の仕事の特性上、単発の案件が多いので常に安心はできません」

 というわけで富澤氏の表現を借りれば、事務所の成長に大事なのはどうやら「運」ということらしい。ただし「運」を引き寄せるには、世の中から何が求められているか見極める鑑識眼と、幅広い業務への柔軟な対応力、そして何より地道な勉強といった、水面下の見えない努力が必要だ。

お客様の問題解決のプロフェッショナル

「許認可申請は毎年更新がありますが、やろうと思えばお客様自身がやることもできます。つまり私たちの最大の競争相手はお客様自身。『自分でやります』と言われた瞬間に、仕事がなくなるんです。でも幸い、開業初期にいろいろな業務を手がけていたおかげでリスク分散ができ、うまく補完できています。結果論でこれも『運』ですが、それが今の強みになっていますね。
 だからこそ言いたいのは、行政書士は書類申請にしがみついてはいけない、つまり書類作成の専門家ではなく、あくまでお客様の問題解決のプロフェッショナルでなければならないということです。許認可や民事法務といった業務の枠を超えてこそ、行政書士の仕事の本質があります。そしてそれは日々の積み重ねで培われ、その努力によって大きく差がつくものなんです」

 2023年で開業10年目の節目を迎える富澤氏に、5年後、10年後、どのような立ち位置にいる想定なのかを聞いてみた。
「行政書士の仕事はひと通りできたので、引退して次のステップにいきたいなと思っています。できれば後進の育成に特化して、業界全体を盛り上げていきたいですね。現実として、せっかく資格を取っても、開業後うまくいかず廃業するケースはあります。ただ、廃業していく人は、基本的な仕事力が足りていないことが多いです。本当にやる気があるのであれば、うちで教えたいし育てたい。そのための育成プログラムも作っています」

 今後は業界発展のために若手を育てていきたいという富澤氏。営業時代に厳しい環境で鍛えられた経験が、仕事に対するストイックさに表れている。
「例えばビザ申請では、生年月日の数字を1文字書き間違えただけで不許可や不受理になることもありますし、ときには虚偽申請と言われてしまう世界です。責任を取るのは私なので神経を使いますし、ミスのないようにダブルチェック体制を取っています。私の仕事の仕方は、周りから厳しい、細かすぎると言われることもありますが、そこはこだわって、徹底しています」

 もうすぐ48歳、開業10年となる富澤氏に行政書士の魅力を語っていただいた。
「自分の仕事で相手が感動してくれたら、うれしいし楽しいじゃないですか。スタッフには『仕事はエンターテインメントだ』といつも言っています。許可の可能性が低い案件でも、特例などを使ってうまくいったときには、お客様も感動してくださいます。それが私や事務所みんなの付加価値になる。喜んでいただけてお金ももらえるなんて、これほど楽しいことはないです。書類作成以外はやめる気はまったくない。老害と言われても、この業界でがんばろうと思っています」

 そんな富澤氏が今一番やってみたいというのが、青少年の留学支援だ。すでに、自身で財団法人も設立したという。
「ロータリークラブで、台湾と日本の高校生の交流事業にも関わっています。私自身、留学で人生が変わったので、他の方にもチャンスが広がってほしいと思い、個人の財団法人も作りました。これから活動を本格化させて留学支援をしていきたいです。それが若い方の将来を変えるきっかけになってくれたらうれしいですよね」

 こうした育成支援が、ひいては事務所の労働力不足解消につながればもっとうれしいと、富澤氏は話す。

何のために行政書士になるのか

 プライベートでは、健康維持・体形維持のため毎朝10kmのランニングをしている富澤氏。ハードではあるが、月200kmを目標に、かれこれ3年間以上続けているという。
「つらい気持ちを毎朝乗り越えて『今日も自分に勝てた!』と、前向きな気持ちで1日をスタートしています」

 またYouTubeでは、行政書士をめざす若者に「何のために行政書士になるのか」を発信し問い続けている。
「行政書士試験は軽い気持ちで合格できる試験ではありません。もし覚悟ができないなら、時間がもったいないので他のことをしたほうがいいと思います。意地でも成功してやるぐらいの意気込みがある方にチャレンジしてほしいですね。
 私が一番言いたいのは、行政書士の仕事は本当に良い仕事だということです。人の役に立ってお金をもらえます。すべてがうまくいくわけではないけれど、総じて感謝されて、自分の能力が社会の役に立っていることを強く実感できます。合格したあとにはそんな魅力的な世界が待っています。でも、そうなりたいなら相当な努力をし続けなければなりません。その覚悟を持って、この世界に飛び込んできてください。また当社の仕事に興味があればぜひともお気軽にご連絡ください」

 自らを「何もかも普通だった」と称していた富澤氏だが、留学と資格取得を経て「中国語ができる行政書士」という特別な存在になった。「新しい行政書士」をめざす富澤氏の姿から、行政書士という資格の魅力が伝わることを願っている。


[『TACNEWS』日本の行政書士|2023年6月号]

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