特集 M&Aと事業の多角化で会社を成長させる会計士社長

村田 裕之氏
Profile

村田 裕之(むらた ひろゆき)氏

磐栄ホールディングス株式会社
代表取締役 公認会計士・税理士

村田 裕之(むらた ひろゆき)
1960年5月12日生まれ、大阪府出身。1984年、慶應義塾大学商学部卒業。同年4月、新卒で生命保険会社に入社。1987年3月、同社退社。公認会計士2次試験の勉強をスタート。1988年9月、公認会計士2次試験合格。同年10月、サンワ・等松青木監査法人(当時)入所。1999年、同所を退所し、会計事務所に勤務。1992年、公認会計士登録。1993年7月、磐栄運送株式会社に代表取締役副社長として入社。2002年、代表取締役社長に就任。2016年3月、純粋持株会社として磐栄ホールディングス株式会社を設立、代表取締役に就任。

 35社からなる磐栄グループを率いるのは、公認会計士・税理士でもある磐栄ホールディングス株式会社 代表取締役の村田裕之氏。村田氏は大学卒業後、生命保険会社に就職するも、自分の実力で仕事をしていきたいという思いから、一念発起して公認会計士となった。そんな村田氏がどのような経緯で35社を率いるようになったのか、友好的M&A戦略と多角化のねらいや、資格を経営にどのように活かしているのかなど詳しくうかがった。

生命保険会社をやめ、公認会計士受験をめざす

──現在、35社からなる磐栄グループを率いる村田社長は、公認会計士(以下、会計士)資格をお持ちとのことでしたが、資格を取得しようと思ったきっかけを教えてください。

村田 私は大阪府出身で、慶應義塾大学商学部に現役で合格し、上京しました。親友など周囲には会計士をめざしている仲間が大勢いましたが、私は体育会自動車部に所属して、部活が学生生活の中心でしたので、学生時代には資格取得どころか、勉強はほとんどしていませんでした。資格取得を意識し始めたのは社会人になってからです。

──大学卒業後の進路をお聞かせください。

村田 父も祖父も銀行員の家庭でした。就職活動に際して父から「銀行は安定していて給与はいいが、厳しくて忙しい。生命保険会社は給与もいいし楽そうだ」と言われたのです。積極的に行きたいという思いはありませんでしたが、生命保険会社でもいいかと思い、当時の大手5社の一角に入社しました。

──生命保険会社時代に会計士をめざしたのでしょうか。

村田 いいえ、退職してからですね。生命保険会社では新入社員研修の一環で販売実習があります。東京に知人も少ないので大変でしたが、負けず嫌いな性格が幸いして、同期109名の中で1位の成績を残しました。そんな結果に将来を期待されたのか、配属されたのは最初から人事部でした。それまでは販売実習の結果や営業成績といったもので人事が行われていると思っていたのですが、実際に人事部で仕事をしてみると、そうではないことがわかりました。
 個人の実力主義とは異なる大組織の評価方針に相容れなさを感じ始めた私は、このまま勤め続けるのではなく、何か国家資格を取得して、自分の実力で仕事をしていきたいと考えるようになりました。すでに会計士を取得している友人に勧められたこともあり、退職して会計士の受験に専念することにしたのです。ちょうど丸3年で生命保険会社をやめました。

──勤めながらではなく、受験に専念されたのですね。

村田 そうですね。受験は当初3年計画で考えていて、2年目からは働きながら勉強するつもりでいました。大学時代はまったく勉強していなかったので、簿記の借方・貸方すらわかりませんでしたから、会社をやめた翌月から、まずは日商簿記3級の勉強を始め、その後、会計士2次試験の勉強に進みました。
 よく勉強を始めて間もない人が、本試験の様子を知るためにお試し受験することがありますよね。でも私は、たとえお試しだとしても不合格となるのは嫌だったので、受験勉強を始めた年の本試験は受けませんでした。負けず嫌いな性格なので、一発合格であることにこだわったのです。そして人生で一番ともいえる猛勉強の末、翌1988年の本試験で無事合格できました。  また、当時はすでに結婚していましたので、私が受験生活に入ると、専業主婦だった妻は、派遣社員として働いてサポートしてくれました。今でも感謝しています。

代表取締役副社長として義父の会社経営に携わる

──会計士2次試験合格後の進路について教えてください。

村田 サンワ・等松青木監査法人(当時)に入所し、法定監査に携わりました。また、前職の経歴から、生命保険会社も担当しました。ただ、監査法人は1年も経たないうちに退所しています。前職で大組織に所属するということに疑問を感じていたこともあり、監査法人にも長くいるつもりはなかったのです。

──会計士登録の要件はどのようにクリアしたのですか。

村田 合格後に通った補習所で同じグループになって意気投合した方に、会計士であるお義父様の会計事務所を紹介していただきました。その会計事務所は法定監査も行っていましたので、会計士登録の要件も満たすことができました。会計事務所ですから、メイン業務は中小企業の税務顧問です。また、当時は不動産バブルの時代でしたので、大型の相続案件を担当したこともありましたね。
 そして会計士の登録をした翌年、縁があって1993年7月から磐栄運送株式会社に代表取締役副社長として勤務することになりました。

──磐栄運送に入られたきっかけを教えてください。

村田 磐栄運送は妻の父親が経営していた福島県いわき市の会社です。あるとき突然、「一緒に会社の経営をやってくれないか」と相談されました。生命保険会社に勤めていた結婚当初から、そんな話が出たことは1度もなかったので驚きました。会計士資格を取得して士業になったことで、自分の会社を任せたいと思ってもらえたのかもしれません。
 受験生時代、私はとにかくいろいろな仕事を経験してみたい、そのためにも資格が必要なのだと考えていました。例えば「資格持ちのアルバイトってカッコいいんじゃない?」なんて考えもありました。その中で「経営」は当時興味を持っていたもののひとつでした。
 それまでの私は会計士として監査を行い、税務もやってきましたが、経営をしたことはありませんでした。ただ興味もありましたし、「何年かやってみるのもいいかな」と思い引き受けたのです。

東日本大震災を転機に友好的M&Aを展開

──副社長としていきなり経営に携わることになったのですね。

村田 そうですね。最初から代表権がある副社長でした。会社の人にとっては、突然、社長の義理の息子がやってきたようなものです。腑に落ちない社員もいたかもしれませんが、私は単に義理の息子だというだけではなく、会計士としてのキャリアもあったので、その分だけ副社長となることに説得力があったのではないかと思います。

──未経験の業種での経営は大変だったのではないですか。

村田 30歳を過ぎて初めて飛びこんだ運送業で、とにかく知識がありませんでしたので、まずは何でもやってみようという気持ちでした。例えば大型貨物自動車の運転。もちろんプロドライバーの皆さんのようにはいきませんが、大学の自動車部時代に、大型免許や牽引免許などほとんどの自動車免許を取得していたことが、多少プラスに働きました。会社にあるすべての車両の運転免許がありましたから。
 その後も義父である社長とともに経営に携わり、2002年には私が代表取締役社長に、義父は会長になりました。

──その当時、磐栄運送はどれくらいの企業規模でしたか。

村田 売上高20億円、社員数180名ぐらいだったでしょうか。いわき市内に本社と営業所があるだけでした。
 そんな中で2008年にリーマンショックが起こり、経営的に大打撃を受けました。さらには、2009年2月に会長である義父が倒れて入院し、3月に亡くなりました。経営に関して相談できる相手がいなくなってしまったのも、経営者としては大きな痛手でした。
 リーマンショック、そして義父の不幸があり、売上高16億円、社員数130名にまで規模は落ち込みました。そこからなんとか回復していこうと気持ちを新たにがんばり始めたところで、今度は2011年3月に東日本大震災が起こりました。

──悲運が重なってしまったのですね。

村田 そうですね。東日本大震災では原子力発電所の事故もありました。いわき市は原子力発電所から40〜50㎞は離れていましたので、避難指示は出ませんでしたが、自主的に避難する人たちも多く、一時はいわきの町中から人が消えました。
 私たちは運送業という仕事柄、避難することは難しかったので、残って業務を続けていました。あの頃は「福島ナンバー」の車両だというだけで風評被害もありました。「福島ナンバーの車で荷物を運んでくるな」とか。中には途中で他県ナンバーの車両に積み替えて対応していた運送会社もあったと聞いています。

──村田社長が友好的M&A戦略をとり始めたのはその頃でしたね。

村田 震災と原子力発電所の事故を経験して、1ヵ所で仕事をしているままでいいのだろうかということを思うようになりました。磐栄運送は規模が落ち込んだとはいえ、いわき市ではそれなりに大きく、利益も出ている会社でした。しかしまた同様のことが起こると想定したとき、拠点の分散が必要ではないかと考えました。それに運送業ですから、広く拠点を展開することは強みになるはずだと思ったのです。それまで拠点展開に積極的でなかったのは、自ら創業し、苦労して会社を育ててきた義父が、自分の目が届く範囲で会社を育てたいと考えていた影響があったからだと思いますが、今後の会社の発展を考えて、このままいわき市内だけで着実にやっていくのか、それとも県外に出て規模を広げていくのか、決断しなければならないと感じました。

──どのような決断をされたのですか。

村田 私は県外に出ていくべきだと考え、震災後にヘッドハンティングで来てもらった社員とともに、拠点展開を進めることにしました。
 まずは千葉県四街道市に営業所を設け、その社員に営業所のトップとして拠点の運営を任せました。それがうまくいったので、その後、埼玉県、千葉県市原市、群馬県と営業所を展開していきました。拠点展開にともない、売上や人員も伸びていきましたね。
 友好的M&Aを展開するようになったのはその後です。2014年に金融機関から福島県内のエムケー物流株式会社を紹介してもらったのが最初でした。
 1社のM&Aがうまくいくと、縁がつながり次々に同様のお話をいただくようになりました。今では35社のグループ企業です。最初は県内や隣県から始まり、関東圏、そして西に広がって私の出身地である大阪府などの関西圏、さらに九州、北海道にもグループ会社があります。

──中国にも進出されていますね。

村田 中国国内の物流ができないかという話をいただいたことがきっかけでした。中国に進出している日本の大手運送会社を紹介してもらい、現地へ話を聞きにうかがった際、大手物流OBの方で中国の運送会社の顧問をしている方と知り合いになりました。会社を訪ねていろいろと教えていただく中で、その会社の責任者が日系大手のOBで、10年ほど前に独立した後、日系の仕事100%で展開していて、ゆくゆくは日本に進出したいという希望を持っていることを知りました。そんな彼の希望と、中国で物流をやりたいという私たちの希望が合致して、自然と合併の話になりました。私たちは天津磐栄貽東園倉儲有限公司という合弁企業として、2019年12月に新たなスタートを切ったのです。

──M&Aを展開するには、資金が必要になりますよね。資金調達はどのようにされたのでしょうか。

村田 M&Aの資金はすべて金融機関からの借り入れです。また、M&Aをすれば、買収をした相手先企業の借り入れも引き受けることになります。すべて私が連帯保証をしていますが、現在のグループ全体の総借入額は相当な金額になっています。

コンプライアンスを重視した企業選び

──金融機関やM&A仲介会社から企業を紹介された際は、どのような観点から合併の是非を判断しているのでしょうか。

村田 一番はコンプライアンスを重視しているかです。運送業は労働時間などが問題になりやすい業種ですので、まずそこを見ます。そこがしっかりとできていれば、経営的には厳しい会社であっても、一緒にやっていくことでいい方向に向かえると思います。あとは経営者と考え方が合っているのか、組むことでお互いが成長していけるのかという観点を大事にしています。1+1が2以上になる会社と組みたいですね。

──いくら経営状況が良好でも、コンプライアンスを重視していない会社とはうまくやっていけないということですね。

村田 そうですね。もしもコンプライアンスを軽視し、過積載を行っている会社と組んだとしたら、私たちは違反を正そうとするでしょう。するとその会社のビジネスモデルが崩れてしまい、運営ができなくなってしまう。これでは経営判断として本末転倒ですよね。

──2016年に純粋持株会社として磐栄ホールディングスを設立されましたが、その意図を教えてください。

村田 最初の数社については、磐栄運送の子会社としてスタートしました。ただ、そのスタイルだとどうしても親会社と子会社という上下のある関係になってしまう。そこで純粋持株会社である磐栄ホールディングスを設立し、グループとしては、中核会社である磐栄運送も含めて横一列に、上下関係をつくらないようにしました。その一環として、グループに加わった会社は、社名はそのまま残し、経営もお任せしています。私が社長になることもありません。後継者がいない場合は、磐栄運送から派遣したり、外部から招聘したりしています。

──通常のM&Aの場合、経営の効率化や合理化を目的に、社名の統一や組織のスリム化を行うことが多いようですが。

村田 そういったことは一切行いません。会社にはそれぞれ歴史があり、社名ひとつとってみても、社員には愛着や誇りがあります。特にドライバーは職人気質な方が多く、その会社が好きだから入ったという人が大勢います。  もし買収先の会社だからとその会社を尊重しないような経営方法をとれば、相当数の社員が辞めてしまうのではないでしょうか。それでは私たちのグループに加わっていただく意味がありません。
 運送会社はたくさんの拠点があることが強みになります。運送先でお互いに仕事がもらえるようになりますし、規模が大きくなることでより大きな仕事に一緒に取り組んでいくことができます。お互いに平等で、どちらが上、下という意識はありません。

──新しい会社がグループに参入する際に心がけていることはありますか。

村田 私には当初、磐栄運送を犠牲にしてでも、グループに加わってもらった会社を大切にしなければいけないという考えがありました。今は現場の判断に任せていますが、磐栄運送から仕事を依頼する際、相手の会社に気を使って手数料を取っていない時期もありました。ドライバーにトラックを配分して仕事を割り振る配車係は通常、手数料でいくら利益を出したかを考えます。それをゼロにされたのですから、配車係にしてみたらたまりませんよね。「新しく入った会社をかわいがるなんて」とおもしろくなく感じた社員もいたかもしれません。ただ、私は新しく仲間になった会社に対してメッセージを送りたかった。上から目線で手駒にするようなことは考えていないと知ってほしかったのです。

──新しくグループに入った会社の社員にはどのように接していますか。

村田 M&Aは経営者同士で話を進めますし、オープンにしているものではありません。社員が知るのはすべてが決まった後です。ですからM&A後、最初に社員説明会を開き、私自身が各社にうかがってお話しします。まず「安心してください」と。経営に対して口は出さないこと、そして社員の幸せとコンプライアンスを重視する方針だということはしっかりと伝えて、あとは会社の歴史や風土を活かして経営してもらいます。そのほうがうまくいくと考えているからです。最近では各社と一緒に営業に行く機会が増えており、大変うれしく感じています。

太陽光発電、植物工場、酒蔵ヘと展開

──磐栄グループでは運送業以外にも事業を展開されています。多角化を進める理由を教えてください。

村田 運送業は高品質なサービスを提供する一方で、残念なことに大量の二酸化炭素を排出しますので、排出にともなう地球環境の悪化を防ぐためにも、環境保全活動に積極的に取り組む必要があると考えています。
 環境保全への取り組みは磐栄運送の事業として行っており、現在は「太陽光発電事業」と「植物工場事業」を展開しています。また、福島県郡山市に1,300ヘクタール(東京ドーム約280個分)の森林を取得し、林業領域への事業展開も進めています。

──太陽光発電事業はどのように展開されているのですか。

村田 何か環境にいいことをやっていきたい、太陽光発電事業なら私たちにもできるのではないかと考えていたときに、再生可能エネルギーの固定価格買取制度(FIT)が国によって定められました。
 この制度を利用すれば事業収益性は高くなりますし、環境にもいいと考えて太陽光発電事業を始めました。現在ではいわき市9ヵ所、茨城県2ヵ所の太陽光発電所があり、総発電能力13,257kWで年間の総発電量は約1,500万kWhに達します。これにより一般家庭約3,500世帯分以上の年間電気使用量をまかなうことができ、さらに約7,500tの二酸化炭素の削減が可能です。
 今では太陽光発電事業はグループの柱のひとつになっています。また、現在大手発電事業者と組んで大規模な風力発電所の準備も進めている最中です。

──植物工場事業についても教えてください。

村田 磐栄運送の立地は工業地帯の一角にあり、私たちはそこで作られた工業製品を運送しています。そのような環境にいて、単に運ぶだけでなく、自分たちもモノづくりの大変さを知りたいと考えるようになりました。しかし、技術的なノウハウのない私たちに工業製品を製造することは難しい。それなら農業はどうだろうかと考えたのです。農業にもさまざまな規制やクリアしなければならないことは多々ありますが、その中から比較的取り組みやすいものとして植物工場事業を始めました。現在はレタスを作っています。こうした取り組みが進み、農家の方たちと協力することで農業法人の設立にも至りました。今では米やオリーブの生産にも取り組んでいます。

──日本酒を造っているともお聞きしました。

村田 そうですね。私たちの取り組みの中でユニークなものに酒蔵があります。長野県下諏訪町にある、町で唯一の酒蔵「御湖鶴」を引き継ぎました。
 これには事情がありまして、もともとは取引先を通じて、オリジナルラベルの商品をお願いしていたのですが、連絡が途絶えてしまったので、調べてみたところ会社が倒産していたことが分かったのです。「御湖鶴」は地元の方たちに愛されている酒蔵で、なんとかこの酒造を守っていきたいという地元の方々の声も多かったので、再建に思いきってチャレンジしました。一度会社が倒産していますので、杜氏や従業員もおらず困り果てたこともありましたが、いろいろなご縁でなんとか新生「御湖鶴」をスタートさせることができました。初めて出品した令和元年度全国新酒鑑評会では、御湖鶴純米大吟醸が入賞しました。将来的には、酒米も自分たちで栽培していきたいと考えています。

──友好的M&A戦略と多角化は今後も続けていかれるのですか。

村田 新型コロナウイルスの影響から、一旦ストップしていますが、今後も積極的に進めていきたいと考えています。日本国内では今後、経済のパイそのものが小さくなると考えられますので、会社を強くするには、その時々に応じて周囲と協力関係を作っていく合従連衡が必要と考えます。拠点が多いことは強みになりますし、人材確保の面でもM&Aは効果的です。グループに参入したことで、売上や規模が大きくなった会社が多々ありますから、もっと多くの企業に参入してもらい、グループとしてさらに強くなっていきたいですね。

──中国での合弁会社に次いで、海外展開は見据えているのでしょうか。

村田 運送のネットワークとして中国、東南アジアまでは拡大していきたいと考えていて、現在、話を進めている会社もあります。グループの中には通関業ができる会社もありますので、その業務を広げていくためにも、海外への展開も積極的にできる範囲で進めていきたいですね。

資格を取得すれば、いろいろなことにチャレンジできる

──35社からなる磐栄グループを率い、友好的M&A戦略や多角化を展開する中で、会計士の資格を活かせていると感じることはありますか。

村田 M&Aの相手先として紹介された企業の経営状況を調べる、いわゆるデューデリジェンスをする際など、会社の経営全般において、会計士の知識は非常に役に立っています。
 会社は結果を残さなければなりません。社員の幸せや社会貢献はもちろんですが、会社を強くする必要があります。利益を出し、納税をして、給与・賞与を出すことを繰り返し、結果を出し続けなければならないのです。
 会社の結果は最終的にすべて数字で表されます。それを読み解くことができる「数字に強い」ことが一番の強みでしょう。30歳過ぎに運送会社に飛び込みましたが、基礎から運送会社での経営スキルを積み上げてきたわけではありません。会計士として基盤があったから、例えば原価計算ひとつとっても何がポイントなのか、損益分岐点とは何かを理解できていたのです。お客様を説得する際も、数字がわかっているからということで真剣に話を聞いてもらえたと思います。
 先ほど、これまでのM&Aの資金はすべて金融機関からの借り入れであるとお話ししましたが、これも私が会計士だったからできたことだと思います。最近は行っていませんが、以前は毎年金融機関の支店長に決算の説明にもうかがっていました。金融機関に対して、経営者が自ら説明できる点も信用につながったのだと思います。

──会計士の資格を経営に活かすことができているのですね。

村田 数字に強いことは、会社経営にとって非常に強みになります。でも、経営には「ちょっと違う要素」が必要です。この点は今勉強している人たちにも知ってほしいのですが、数字がわかるだけでは経営者にはなれません。社員の皆さんにやる気を持って働いてもらえるよう働きかける、社内をまとめる、職人気質の社員にも気持ちよく納得して働いてもらえるよう努める、お客様への営業をする、金融機関と交渉をするなど、経営には数字には表れない要素がたくさんあります。数字がわかることは強みですが、経営とはそれだけではないことを知っておいてほしいと思います。

──最後に資格取得に向けて勉強している受験生にメッセージをお願いします。

村田 資格を取得することで自分自身の仕事に対するモチベーションも高まりますし、自信にもなると思います。会計士や税理士といった資格を活かして、監査法人や会計事務所などで働くことはもちろんですが、資格があることで自治体や団体などから公的な立場で意見をもらいたいといった依頼をいただくこともありますし、私のように経営に直に携わることもでき、働き方の幅を広げることができます。私も、あのとき勉強に必死に取り組んで資格を取得したからこそ、今好きなことができていると思っています。資格を取得すればきっと道が広がりますよ。ぜひがんばってください。

[『TACNEWS』 2020年10月号|特集] 

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